空蝉      
5.源氏、空蝉の脱ぎ捨てた衣を持って帰る
  本文  現代語訳
  小君、御車の後にて、二条院におはしましぬ。ありさまのたまひて、「幼かりけり」とあはめたまひて、かの人の心を爪弾きをしつつ恨みたまふ。いとほしうて、ものもえ聞こえず。   小君を、お車の後ろに乗せて、二条院にお帰りになった。出来事をおっしゃって、「幼稚であった」と軽蔑なさって、あの女の気持ちを爪弾きをしいしいお恨みなさる。気の毒で、何とも申し上げられない。
  「いと深う憎みたまふべかめれば、身も憂く思ひ果てぬ。などか、よそにても、なつかしき答へばかりはしたまふまじき。伊予介に劣りける身こそ」   「とてもひどく嫌っておいでのようなので、わが身もすっかり嫌になってしまった。どうして、逢って下さらないまでも、親しい返事ぐらいはして下さらないのだろうか。伊予介にも及ばないわが身だ」
  など、心づきなしと思ひてのたまふ。ありつる小袿を、さすがに、御衣の下に引き入れて、大殿籠もれり。小君を御前に臥せて、よろづに恨み、かつは、語らひたまふ。   などと、気にくわないと思っておっしゃる。先程の小袿を、そうは言うものの、お召物の下に引き入れて、お寝みになった。小君をお側に寝かせて、いろいろと恨み言をいい、かつまた、優しくお話しなさる。
   
  「あこは、らうたけれど、つらきゆかりにこそ、え思ひ果つまじけれ」   「おまえは、かわいいけれど、つれない女の弟だと思うと、いつまでもかわいがってやれるともわからない」
  とまめやかにのたまふを、いとわびしと思ひたり。   と真面目におっしゃるので、とても辛いと思っている。
  しばしうち休みたまへど、寝られたまはず。御硯急ぎ召して、さしはへたる御文にはあらで、畳紙に手習のやうに書きすさびたまふ。   しばらくの間、横になっていられたが、お眠りになれない。御硯を急に用意させて、わざわざのお手紙ではなく、畳紙に手習いのように思うままに書き流しなさる。
 「空蝉の身をかへてける木のもとに

  なほ人がらのなつかしきかな」

  「蝉が殻を脱ぐように、衣を脱ぎ捨てて逃げ去っていったあなたですが

 やはり人柄が懐かしく思われます」

  と書きたまへるを、懐に引き入れて持たり。かの人もいかに思ふらむと、いとほしけれど、かたがた思ほしかへして、御ことつけもなし。かの薄衣は、小袿のいとなつかしき人香に染めるを、身近くならして見ゐたまへり。   とお書きになったのを、懐に入れて持っていた。あの女もどう思っているだろうかと、気の毒に思うが、いろいろとお思い返しなさって、お言伝てもない。あの薄衣は、小袿のとても懐かしい人の香が染み込んでいるので、それをいつもお側近くに置いて見ていらっしゃった。
   
  小君、かしこに行きたれば、姉君待ちつけて、いみじくのたまふ。   小君が、あちらに行ったところ、姉君が待ち構えていて、厳しくお叱りになる。
  「あさましかりしに、とかう紛らはしても、人の思ひけむことさりどころなきに、いとなむわりなき。いとかう心幼きを、かつはいかに思ほすらむ」   「とんでもないことであったのに、何とか人目はごまかしても、他人の思惑はどうすることもできないので、ほんとうに困ったこと。まことにこのように幼く浅はかな考えを、また一方でどうお思いになっていらっしゃろうか」
  とて、恥づかしめたまふ。左右に苦しう思へど、かの御手習取り出でたり。さすがに、取りて見たまふ。かのもぬけを、いかに、伊勢をの海人のしほなれてや、など思ふもただならず、いとよろづに乱れて。   と言って、お叱りになる。どちらからも叱られて辛く思うが、あの源氏の君の手すさび書きを取り出した。お叱りはしたものの、手に取って御覧になる。あの脱ぎ捨てた小袿を、どのように、「伊勢をの海人」のように汗臭くはなかったろうか、と思うのも気が気でなく、いろいろと思い乱れて。
   
  西の君も、もの恥づかしき心地してわたりたまひにけり。また知る人もなきことなれば、人知れずうちながめてゐたり。小君の渡り歩くにつけても、胸のみ塞がれど、御消息もなし。あさましと思ひ得る方もなくて、されたる心に、ものあはれなるべし。   西の君も、何とはなく恥ずかしい気持ちがしてお帰りになった。他に知っている人もいない事なので、一人物思いに耽っていた。小君が行き来するにつけても、胸ばかりが締めつけられるが、お手紙もない。あまりのことだと気づくすべもなくて、陽気な性格ながら、何となく悲しい思いをしているようである。
  つれなき人も、さこそしづむれ、いとあさはかにもあらぬ御気色を、ありしながらのわが身ならばと、取り返すものならねど、忍びがたければ、この御畳紙の片つ方に、   薄情な女も、そのように落ち着いてはいるが、通り一遍とも思えないご様子を、結婚する前のわが身であったらと、昔に返れるものではないが、堪えることができないので、この懐紙の片端の方に、
  「空蝉の羽に置く露の木隠れて

  忍び忍びに濡るる袖かな」

 「空蝉の羽に置く露が木に隠れて見えないように

  わたしもひそかに、涙で袖を濡らしております」