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紅葉賀

第三章 藤壺の物語(二) 二月に男皇子を出産

4. 源氏、紫の君に心を慰める

 

本文

現代語訳

 つくづくと臥したるにも、やるかたなき心地すれば、例の、慰めには西の対にぞ渡りたまふ。

  しどけなくうちふくだみたまへる鬢ぐき、あざれたる袿姿にて、笛をなつかしう吹きすさびつつ、のぞきたまへれば、女君、ありつる花の露に濡れたる心地して、添ひ臥したまへるさま、うつくしうらうたげなり。愛敬こぼるるやうにて、おはしながらとくも渡りたまはぬ、なまうらめしかりければ、例ならず、背きたまへるなるべし。端の方についゐて、

  「こちや」

  とのたまへど、おどろかず、

  「入りぬる磯の」

  と口ずさみて、口おほひしたまへるさま、いみじうされてうつくし。

  「あな、憎。かかること口馴れたまひにけりな。みるめに飽くは、まさなきことぞよ」

  とて、人召して、御琴取り寄せて弾かせたてまつりたまふ。

  「箏の琴は、中の細緒の堪へがたきこそところせけれ」

  とて、平調におしくだして調べたまふ。かき合はせばかり弾きて、さしやりたまへれば、え怨じ果てず、いとうつくしう弾きたまふ。

 つくづくと物思いに沈んでいても、晴らしようのない気持ちがするので、いつものように、気晴らしには西の対にお渡りになる。

  取り繕わないで毛羽だっていらっしゃる鬢ぐき、うちとけた袿姿で、笛を慕わしく吹き鳴らしながら、お立ち寄りになると、女君、先程の花が露に濡れたような感じで、寄り臥していらっしゃる様子、かわいらしく可憐である。愛嬌がこぼれるようで、おいでになりながら早くお渡り下さらないのが、何となく恨めしかったので、いつもと違って、すねていらっしゃるのであろう。端の方に座って、

  「こちらへ」

  とおっしゃるが、素知らぬ顔で、

  「お目にかかることが少なくて」

  と口ずさんで、口を覆っていらっしゃる様子、たいそう色っぽくてかわいらしい。

  「まあ、憎らしい。このようなことをおっしゃるようになりましたね。みるめに人を飽きるとは、良くないことですよ」

  と言って、人を召して、お琴取り寄せてお弾かせ申し上げなさる。

  「箏の琴は、中の細緒が切れやすいのが厄介だ」

  と言って、平調に下げてお調べになる。調子合わせの小曲だけ弾いて、押しやりなさると、いつまでもすねてもいられず、とてもかわいらしくお弾きになる。

 小さき御ほどに、さしやりて、ゆしたまふ御手つき、いとうつくしければ、らうたしと思して、笛吹き鳴らしつつ教へたまふ。いとさとくて、かたき調子どもを、ただひとわたりに習ひとりたまふ。大方らうらうじうをかしき御心ばへを、「思ひしことかなふ」と思す。「保曾呂惧世利」といふものは、名は憎けれど、おもしろう吹きすさびたまへるに、かき合はせ、まだ若けれど、拍子違はず上手めきたり。

 お小さいからだで、左手をさしのべて、弦を揺らしなさる手つき、とてもかわいらしいので、愛しいとお思いになって、笛吹き鳴らしながらお教えになる。とても賢くて難しい調子などを、たった一度で習得なさる。何事につけても才長けたご性格を、「期待していた通りである」とお思いになる。「保曽呂具世利」という曲目は、名前は嫌だが、素晴らしくお吹きになると、合奏させて、まだ未熟だが、拍子を間違えず上手のようである。

 

 大殿油参りて、絵どもなど御覧ずるに、「出でたまふべし」とありつれば、人びと声づくりきこえて、

  「雨降りはべりぬべし」

  など言ふに、姫君、例の、心細くて屈したまへり。絵も見さして、うつぶしておはすれば、いとらうたくて、御髪のいとめでたくこぼれかかりたるを、かき撫でて、

  「他なるほどは恋しくやある」

  とのたまへば、うなづきたまふ。

 大殿油を燈して、絵などを御覧になっていると、「お出かけになる予定」とあったので、供人たちが咳払いし合図申して、

 「雨が降って来そうでございます」

  などと言うので、姫君、いつものように心細くふさいでいらっしゃった。絵を見ることも止めて、うつ伏していらっしゃるので、とても可憐で、お髪がとても見事にこぼれかかっているのを、かき撫でて、

 「出かけている間は寂しいですか」

  とおっしゃると、こっくりなさる。

 「我も、一日も見たてまつらぬはいと苦しうこそあれど、幼くおはするほどは、心やすく思ひきこえて、まづ、くねくねしく怨むる人の心破らじと思ひて、むつかしければ、しばしかくもありくぞ。おとなしく見なしては、他へもさらに行くまじ。人の怨み負はじなど思ふも、世に長うありて、思ふさまに見えたてまつらむと思ふぞ」

 「わたしも、一日もお目にかからないでいるのは、とてもつらいことですが、お小さくいらっしゃるうちは、気安くお思い申すので、まず、ひねくれて嫉妬する人の機嫌を損ねまいと思って、うっとうしいので、暫く間はこのように出かけるのですよ。大人におなりになったら、他の所へは決して行きませんよ。人の嫉妬を受けまいなどと思うのも、長生きして、思いのままに一緒にお暮らししたいと思うからですよ」

 など、こまごまと語らひきこえたまへば、さすがに恥づかしうて、ともかくもいらへきこえたまはず。やがて御膝に寄りかかりて、寝入りたまひぬれば、いと心苦しうて、

  「今宵は出でずなりぬ」

  とのたまへば、皆立ちて、御膳などこなたに参らせたり。姫君起こしたてまつりたまひて、

  「出でずなりぬ」

  と聞こえたまへば、慰みて起きたまへり。もろともにものなど参る。いとはかなげにすさびて、

  「さらば、寝たまひねかし」

  と、危ふげに思ひたまへれば、かかるを見捨てては、いみじき道なりとも、おもむきがたくおぼえたまふ。

 などと、こまごまとご機嫌をお取り申されると、そうは言うものの恥じらって、何ともお返事申し上げなされない。そのままお膝に寄りかかって、眠っておしまになったので、とてもいじらしく思って、

  「今夜は出かけないことになった」

  とおっしゃると、皆立ち上がって、御膳などをこちらに運ばせた。姫君を起こしてさし上げにさって、

  「出かけないことになった」

  とお話し申し上げなさると、機嫌を直してお起きになった。ご一緒にお食事を召し上がる。ほんのちょっとお箸を付けになって、

  「では、お寝みなさい」

  と不安げに思っていらっしゃるので、このような人を放ってはどんな道であっても出かけることはできない、と思われなさる。

 かやうに、とどめられたまふ折々なども多かるを、おのづから漏り聞く人、大殿に聞こえければ、

  「誰れならむ。いとめざましきことにもあるかな」

  「今までその人とも聞こえず、さやうにまつはしたはぶれなどすらむは、あてやかに心にくき人にはあらじ」

  「内裏わたりなどにて、はかなく見たまひけむ人を、ものめかしたまひて、人やとがめむと隠したまふななり。心なげにいはけて聞こゆるは」

  など、さぶらふ人びとも聞こえあへり。

 このように、引き止められなさる時々も多くあるのを、自然と漏れ聞く人が、大殿にも申し上げたので、

  「誰なのでしょう。とても失礼なことではありませんか」

  「今まで誰それとも知れず、そのようにくっついたまま遊んだりするような人は、上品な教養のある人ではありますまい」

  「宮中辺りで、ちょっと見初めたような女を、ご大層にお扱いになって、人目に立つかと隠していられるのでしょう。分別のない幼稚な人だと聞きますから」

  などと、お仕えする女房たちも噂し合っていた。

 内裏にも、かかる人ありと聞こし召して、

  「いとほしく、大臣の思ひ嘆かるなることも、げに、ものげなかりしほどを、おほなおほなかくものしたる心を、さばかりのことたどらぬほどにはあらじを。などか情けなくはもてなすなるらむ」

  と、のたまはすれど、かしこまりたるさまにて、御いらへも聞こえたまはねば、「心ゆかぬなめり」と、いとほしく思し召す。

 お上におかれても、「このような女の人がいる」と、お耳に入れあそばして、

  「気の毒に、大臣がお嘆きということも、なるほど、まだ幼かったころを、一生懸命にこんなにお世話してきた気持ちを、それくらいのことをご分別できない年頃でもあるまいに。どうして薄情な仕打ちをなさるのだろう」

  と、仰せられるが、恐縮した様子で、お返事も申し上げられないので、「お気に入らないようだ」と、かわいそうにお思いあそばす。

 「さるは、好き好きしううち乱れて、この見ゆる女房にまれ、またこなたかなたの人びとなど、なべてならずなども見え聞こえざめるを、いかなるもののくまに隠れありきて、かく人にも怨みらるらむ」とのたまはす。

 「その一方では、好色がましく振る舞って、ここに見える女房であれ、またここかしこの女房たちなどと、浅からぬ仲に見えたり噂も聞かないようだが、どのような人目につかない所にあちこち隠れ歩いて、このように人に怨まれることをしているのだろう」と仰せられる。



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