5. 三月二十余日、右大臣邸の藤花の宴
本文 |
現代語訳 |
かの有明の君は、はかなかりし夢を思し出でて、いともの嘆かしうながめたまふ。春宮には、卯月ばかりと思し定めたれば、いとわりなう思し乱れたるを、男も、尋ねたまはむにあとはかなくはあらねど、いづれとも知らで、ことに許したまはぬあたりにかかづらはむも、人悪く思ひわづらひたまふに、弥生の二十余日、右の大殿の弓の結に、上達部、親王たち多く集へたまひて、やがて藤の宴したまふ。 |
あの有明の君は、夢のようにはかなかった逢瀬をお思い出しになって、とても物嘆かしくて物思いに沈んでいらっしゃる。春宮には、卯月ころとご予定になっていたので、とてもたまらなく悩んでいらっしゃったが、男も、お捜しになるにも手がかりがないわけではないが、どちらとも分からず、特に好ましく思っておられないご一族に関係するのも、体裁の悪く思い悩んでいらっしゃるところに、弥生の二十日過ぎ、右の大殿の弓の結があり、上達部、親王方、大勢お集まりになって、引き続いて藤の宴をなさる。 |
花盛りは過ぎにたるを、「ほかの散りなむ」とや教へられたりけむ、遅れて咲く桜、二木ぞいとおもしろき。新しう造りたまへる殿を、宮たちの御裳着の日、磨きしつらはれたり。はなばなとものしたまふ殿のやうにて、何ごとも今めかしうもてなしたまへり。 |
花盛りは過ぎてしまったが、「他のが散りってしまった後に」と、教えられたのであろうか、遅れて咲く桜、二本がとても美しい。新しくお造りになった殿を、姫宮たちの御裳着の儀式の日に、磨き飾り立ててある。派手好みでいらっしゃるご家風のようで、すべて当世風に洒落た行き方になさている。 |
源氏の君にも、一日、内裏にて御対面のついでに、聞こえたまひしかど、おはせねば、口惜しう、ものの栄なしと思して、御子の四位少将をたてまつりたまふ。 |
源氏の君にも、先日、宮中でお会いした折に、ご案内申し上げなさったが、おいでにならないので、残念で、折角の催しも見栄えがしない、とお思いになって、ご子息の四位少将をお迎えに差し上げなさる。 |
「わが宿の花しなべての色ならば 何かはさらに君を待たまし」 |
「わたしの邸の藤の花が世間一般の色をしているのなら どうしてあなたをお待ち致しましょうか」 |
内裏におはするほどにて、主上に奏したまふ。 「したり顔なりや」と笑はせたまひて、 「わざとあめるを、早うものせよかし。女御子たちなども、生ひ出づるところなれば、なべてのさまには思ふまじきを」 などのたまはす。御装ひなどひきつくろひたまひて、いたう暮るるほどに、待たれてぞ渡りたまふ。 |
宮中においでの時で、お上に奏上なさる。 「得意顔だね」と、お笑いあそばして、 「わざわざお迎えがあるようだから、早くお行きになるのがよい。女御子たちも成長なさっている所だから、赤の他人とは思っていまいよ」 などと仰せになる。御装束などお整えになって、たいそう日が暮れたころ、待ち兼ねられて、お着きになる。 |
桜の唐の綺の御直衣、葡萄染の下襲、裾いと長く引きて。皆人は表の衣なるに、あざれたる大君姿のなまめきたるにて、いつかれ入りたまへる御さま、げにいと異なり。花の匂ひもけおされて、なかなかことざましになむ。 |
桜襲の唐織りのお直衣、葡萄染の下襲、裾をとても長く引いて。参会者は皆袍を着ているところに、しゃれた大君姿の優美な様子で、丁重に迎えられてお入りになるお姿は、なるほどまことに格別である。花の美しさも圧倒されて、かえって興醒めである。 |
遊びなどいとおもしろうしたまひて、夜すこし更けゆくほどに、源氏の君、いたく酔ひ悩めるさまにもてなしたまひて、紛れ立ちたまひぬ。 |
管弦の遊びなどもとても興趣深くなさって、夜が少し更けていくころに、源氏の君、たいそう酔って苦しいように見せかけなさって、人目につかぬよう座をお立ちになった。 |
寝殿に、女一宮、女三宮のおはします。東の戸口におはして、寄りゐたまへり。藤はこなたの妻にあたりてあれば、御格子ども上げわたして、人びと出でゐたり。袖口など、踏歌の折おぼえて、ことさらめきもて出でたるを、ふさはしからずと、まづ藤壺わたり思し出でらる。 |
寝殿に、女一の宮、女三の宮がいらっしゃる。東の戸口にいらっしゃって、寄り掛かってお座りになった。藤はこちらの隅にあったので、御格子を一面に上げわたして、女房たちが端に出て座っていた。袖口などは、踏歌の時を思い出して、わざとらしく出しているのを、似つかわしくないと、まずは藤壷周辺を思い出さずにはいらっしゃれない。 |
「なやましきに、いといたう強ひられて、わびにてはべり。かしこけれど、この御前にこそは、蔭にも隠させたまはめ」 とて、妻戸の御簾を引き着たまへば、 「あな、わづらはし。よからぬ人こそ、やむごとなきゆかりはかこちはべるなれ」 と言ふけしきを見たまふに、重々しうはあらねど、おしなべての若人どもにはあらず、あてにをかしきけはひしるし。 |
「苦しいところに、とてもひどく勧められて、困っております。恐縮ですが、この辺の物蔭にでも隠させてください」 と言って、妻戸の御簾を引き被りなさると、 「あら、困りますわ。身分の賎しい人なら、高貴な縁者を頼って来るとは聞いておりますが」 と言う様子を御覧になると、重々しくはないが、並の若い女房たちではなく、上品で風情ある様子がはっきりと分かる。 |
そらだきもの、いと煙たうくゆりて、衣の音なひ、いとはなやかにふるまひなして、心にくく奥まりたるけはひはたちおくれ、今めかしきことを好みたるわたりにて、やむごとなき御方々もの見たまふとて、この戸口は占めたまへるなるべし。さしもあるまじきことなれど、さすがにをかしう思ほされて、「いづれならむ」と、胸うちつぶれて、 |
空薫物、とても煙たく薫らせて、衣ずれの音、とても派手な感じにわざと振る舞って、心憎く奥ゆかしい雰囲気は欠けて、当世風な派手好みのお邸で、高貴な御方々が御見物なさるというので、こちらの戸口は座をお占めになっているのだろう。そうしてはいけないことなのだが、やはり興味をお惹かれになって、「どの姫君であったのだろうか」と、胸をどきどきさせて、 |
「扇を取られて、からきめを見る」 と、うちおほどけたる声に言ひなして、寄りゐたまへり。 「あやしくも、さま変へける高麗人かな」 といらふるは、心知らぬにやあらむ。いらへはせで、ただ時々、うち嘆くけはひする方に寄りかかりて、几帳越しに手をとらへて、 |
「扇を取られて、辛い目を見ました」 と、わざとのんびりとした声で言って、近寄ってお座りになった。 「妙な、変わった高麗人ですね」 と答えるのは、事情を知らない人であろう。返事はしないで、わずかに時々、溜息をついている様子のする方に寄り掛かって、几帳越しに、手を捉えて、 |
「梓弓いるさの山に惑ふかな ほの見し月の影や見ゆると 何ゆゑか」 |
「月の入るいるさの山の周辺でうろうろと迷っています かすかに見かけた月をまた見ることができようかと なぜでしょうか」
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と、推し当てにのたまふを、え忍ばぬなるべし。 |
と、当て推量におっしゃるのを、堪えきれないのであろう。 |
「心いる方ならませば弓張の 月なき空に迷はましやは」 |
「本当に深くご執心でいらっしゃれば たとえ月が出ていなくても迷うことがありましょうか」
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と言ふ声、ただそれなり。いとうれしきものから。 |
と言う声、まさにその人のである。とても嬉しいのだが。 |