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須磨

第一章 光る源氏の物語 逝く春と離別の物語

9. 離京の当日

 

本文

現代語訳

 その日は、女君に御物語のどかに聞こえ暮らしたまひて、例の、夜深く出でたまふ。狩の御衣など、旅の御よそひ、いたくやつしたまひて、

 出発の当日は、女君にお話を一日中のんびりとお過ごし申し上げなさって、旅立ちの例で、夜明け前にお立ちになる。狩衣のご衣装など、旅のご装束、たいそう質素なふうになさって、

 「月出でにけりな。なほすこし出でて、見だに送りたまへかし。いかに聞こゆべきこと多くつもりにけりとおぼえむとすらむ。一日、二日たまさかに隔たる折だに、あやしういぶせき心地するものを」

 「月も出たなあ。もう少し端に出て、せめて見送ってください。どんなにお話申し上げたいことがたくさん積もったと思うことでしょう。一日、二日まれに離れている時でさえ、不思議と気が晴れない思いがしますものを」

 とて、御簾巻き上げて、端にいざなひきこえたまへば、女君、泣き沈みたまへるを、ためらひて、ゐざり出でたまへる、月影に、いみじうをかしげにてゐたまへり。「わが身かくてはかなき世を別れなば、いかなるさまにさすらへたまはむ」と、うしろめたく悲しけれど、思し入りたるに、いとどしかるべければ、

 とおっしゃって、御簾を巻き上げて、端近にお誘い申し上げなさると、女君、泣き沈んでいらっしゃたが、気持ちを抑えて、膝行して出ていらっしゃったのが、月の光にたいそう美しくお座りになった。「わが身がこのようにはかない世の中を離れて行ったら、どのような状態でさすらって行かれるのであろうか」と、不安で悲しく思われるが、深いお悲しみの上に、ますます悲しませるようなので、

 「生ける世の別れを知らで契りつつ

   命を人に限りけるかな

  はかなし」

 「生きている間にも生き別れというものがあるとは知らずに

   命のある限りは一緒にと信じていたことよ

  はかないことだ」

 など、あさはかに聞こえなしたまへば、

 などと、わざとあっさりと申し上げなさったので、

 「惜しからぬ命に代へて目の前の

   別れをしばしとどめてしがな」

 「惜しくもないわたしの命に代えて、今のこの

   別れを少しの間でも引きとどめて置きたいものです」

 「げに、さぞ思さるらむ」と、いと見捨てがたけれど、明け果てなば、はしたなかるべきにより、急ぎ出でたまひぬ。

 「なるほど、そのようにもお思いだろう」と、たいそう見捨てて行きにくいが、夜がすっかり明けてしまったら、きまりが悪いので、急いでお立ちになった。

 道すがら、面影につと添ひて、胸もふたがりながら、御舟に乗りたまひぬ。日長きころなれば、追風さへ添ひて、まだ申の時ばかりに、かの浦に着きたまひぬ。かりそめの道にても、かかる旅をならひたまはぬ心地に、心細さもをかしさもめづらかなり。大江殿と言ひける所は、いたう荒れて、松ばかりぞしるしなる。

 道中、面影のようにありありとまぶたに浮かんで、胸もいっぱいのまま、お舟にお乗りになった。日の長いころなので、追い風までが吹き加わって、まだ申の時刻に、あの浦にお着きになった。ほんのちょっとのお出ましであっても、こうした旅路をご経験のない気持ちで、心細さも物珍しさも並大抵ではない。大江殿と言った所は、ひどく荒れて、松の木だけが形跡をとどめているだけである。

 「唐国に名を残しける人よりも

   行方知られぬ家居をやせむ」

 「唐国で名を残した人以上に

   行方も知らない侘住まいをするのだろうか」

 渚に寄る波のかつ返るを見たまひて、「うらやましくも」と、うち誦じたまへるさま、さる世の古言なれど、珍しう聞きなされ、悲しとのみ御供の人びと思へり。うち顧みたまへるに、来し方の山は霞はるかにて、まことに「三千里の外」の心地するに、櫂の雫も堪へがたし。

 渚に打ち寄せる波の寄せては返すのを御覧になって、「うらやましくも」と口ずさみなさっているご様子、誰でも知っている古歌であるが、珍しく聞けて、悲しいとばかりお供の人々は思っている。振り返って御覧になると、来た方角の山は霞が遠くにかかって、まことに、「三千里の外」という心地がすると、櫂の滴も耐えきれない。

 「故郷を峰の霞は隔つれど

   眺むる空は同じ雲居か」

 「住みなれた都を峰の霞は遠く隔てるが

   悲しい気持ちで眺めている空は同じ空なのだ」

 つらからぬものなくなむ。

 辛くなく思われないものはないのであった。



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