第三章 光る源氏の物語 須磨の秋の物語
5.
須磨の生活
本文 |
現代語訳 |
かの御住まひには、久しくなるままに、え念じ過ぐすまじうおぼえたまへど、「我が身だにあさましき宿世とおぼゆる住まひに、いかでかは、うち具しては、つきなからむ」さまを思ひ返したまふ。所につけて、よろづのことさま変はり、見たまへ知らぬ下人のうへをも、見たまひ慣らはぬ御心地に、めざましうかたじけなう、みづから思さる。煙のいと近く時々立ち来るを、「これや海人の塩焼くならむ」と思しわたるは、おはします後の山に、柴といふものふすぶるなりけり。めづらかにて、 |
あちらのお暮らしは、生活が長くなるにしたがって、とても我慢できなくお思いになったが、「自分の身でさえ驚くばかりの運命だと思われる住まいなのに、どうして、一緒に暮らせようか、いかにもふさわしくない」さまをお考え直しになる。場所が場所なだけに、すべて様子が違って、ご存じでない下人の身の上をも、見慣れていらっしゃらなかったことなので、心外にももったいなくも、ご自身思わずにはいらっしゃれない。煙がとても近くに時々立ち上るのを、「これが海人が塩を焼く煙なのだろう」とずっとお思いになっていたのは、お住まいになっている後ろの山で、柴というものをいぶしているのであった。珍しいので、 |
「山賤の庵に焚けるしばしばも 言問ひ来なむ恋ふる里人」 |
「賤しい山人が粗末な家で焼いている柴のように しばしば訪ねて来てほしいわが恋しい都の人よ」 |
冬になりて雪降り荒れたるころ、空のけしきもことにすごく眺めたまひて、琴を弾きすさびたまひて、良清に歌うたはせ、大輔、横笛吹きて、遊びたまふ。心とどめてあはれなる手など弾きたまへるに、他物の声どもはやめて、涙をのごひあへり。 |
冬になって雪が降り荒れたころ、空模様もことにぞっとするほど寂しく御覧になって、琴を心にまかせてお弾きになって、良清に歌をうたわせ、大輔、横笛を吹いて、お遊びなさる。心をこめてしみじみとした曲をお弾きになると、他の楽器の音はみなやめて、涙を拭いあっていた。 |
昔、胡の国に遣しけむ女を思しやりて、「ましていかなりけむ。この世に我が思ひきこゆる人などをさやうに放ちやりたらむこと」など思ふも、あらむことのやうにゆゆしうて、 「霜の後の夢」 と誦じたまふ。 |
昔、胡の国に遣わしたという女のことをお思いやりになって、「自分以上にどんな気持ちであったろう。この世で自分の愛する人をそのように遠くにやったりしたら」などと思うと、実際に起こるように不吉に思われて、 「胡角一声霜の後の夢」 と朗誦なさる。 |
月いと明うさし入りて、はかなき旅の御座所、奥まで隈なし。床の上に夜深き空も見ゆ。入り方の月影、すごく見ゆるに、 「ただ是れ西に行くなり」 と、ひとりごちたまて、 |
月がたいそう明るく差し込んで、仮そめの旅のお住まいでは、奥の方まで素通しである。床の上から夜の深い空も見える。入り方の月の光が、寒々と見えるので、 「ただ月は西へ行くのである」 と独り口ずさみなさって、 |
「いづ方の雲路に我も迷ひなむ 月の見るらむことも恥づかし」 |
「どの方角の雲路にわたしも迷って行くことであろう 月が見ているだろうことも恥ずかしい」 |
とひとりごちたまひて、例のまどろまれぬ暁の空に、千鳥いとあはれに鳴く。 |
と独詠なさると、いつものようにうとうととなされぬ明け方の空に、千鳥がとても悲しい声で鳴いている。 |
「友千鳥諸声に鳴く暁は ひとり寝覚の床も頼もし」 |
「友千鳥が声を合わせて鳴いている明け方は 独り寝覚めて泣くわたしも心強い気がする」 |
また起きたる人もなければ、返す返すひとりごちて臥したまへり。 |
他に起きている人もいないので、繰り返し独り言をいって臥せっていらっしゃった。 |
夜深く御手水参り、御念誦などしたまふも、めづらしきことのやうに、めでたうのみおぼえたまへば、え見たてまつり捨てず、家にあからさまにもえ出でざりけり。 |
深夜にお手を洗い、御念誦などをお唱えになるのも、珍しいことのように、ただもう立派にお見えになるので、お見捨て申し上げることができず、家にちょっとでも退出することもできなかった。 |