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若菜下

第五章 光る源氏の物語 源氏の音楽論    

1. 音楽の春秋論     

 

本文

現代語訳

 夜更けゆくけはひ、冷やかなり。臥待の月はつかにさし出でたる、

 夜が更けて行く様子、冷え冷えとした感じがする。臥待の月がわずかに顔を出したのを、

 「心もとなしや、春の朧月夜よ。秋のあはれ、はた、かうやうなる物の音に、虫の声縒り合はせたる、ただならず、こよなく響き添ふ心地すかし」

 「おぼつかない光だね、春の朧月夜は。秋の情趣は、やはりまた、このような楽器の音色に、虫の声を合わせたのが、何とも言えず、この上ない響きが深まるような気がするものだ」

 とのたまへば、大将の君、

 とおっしゃると、大将の君、

 「秋の夜の隈なき月には、よろづの物とどこほりなきに、琴笛の音も、あきらかに澄める心地はしはべれど、なほことさらに作り合はせたるやうなる空のけしき、花の露も、いろいろ目移ろひ心散りて、限りこそはべれ。

 「秋の夜の曇りない月には、すべてのものがくっきりと見え、琴や笛の音色も、すっきりと澄んだ気は致しますが、やはり特別に作り出したような空模様や、草花の露も、いろいろと目移りし気が散って、限界がございます。

 春の空のたどたどしき霞の間より、おぼろなる月影に、静かに吹き合はせたるやうには、いかでか。笛の音なども、艶に澄みのぼり果てずなむ。

 春の空のたどたどしい霞の間から、朧に霞んだ月の光に、静かに笛を吹き合わせたようなのには、どうして秋が及びましょうか。笛の音色なども、優艶に澄みきることはないのです。

 女は春をあはれぶと、古き人の言ひ置きはべりける。げに、さなむはべりける。なつかしく物のととのほることは、春の夕暮こそことにはべりけれ」

 女性は春をあわれぶと、昔の人が言っておりました。なるほど、そのようでございます。やさしく音色が調和する点では、春の夕暮が格別でございます」

 と申したまへば、

 と申し上げなさると、

 「いな、この定めよ。いにしへより人の分きかねたることを、末の世に下れる人の、えあきらめ果つまじくこそ。物の調べ、曲のものどもはしも、げに律をば次のものにしたるは、さもありかし」

 「いや、この議論だがね。昔から皆が判断しかねた事を、末の世の劣った者には、決定しがたいことであろう。楽器の調べや、曲目などは、なるほど律を二の次にしているが、そのようなことであろう」

 などのたまひて、

 などとおっしゃって、

 「いかに。ただ今、有職のおぼえ高き、その人かの人、御前などにて、たびたび試みさせたまふに、すぐれたるは、数少なくなりためるを、そのこのかみと思へる上手ども、いくばくえまねび取らぬにやあらむ。このかくほのかなる女たちの御中に弾きまぜたらむに、際離るべくこそおぼえね。

 「どんなものであろう。現在、演奏上手の評判の高い、その人あの人を、帝の御前などで、度々試みさせあそばすと、勝れた者は、数少なくなったようだが、その一流と思われる名人たちも、どれほども習得し得ていないのではなかろうか。このような何でもないご婦人方の中で一緒に弾いたとしても、格別に勝れているようには思われない。

 年ごろかく埋れて過ぐすに、耳などもすこしひがひがしくなりにたるにやあらむ、口惜しうなむ。あやしく、人の才、はかなくとりすることども、ものの栄ありてまさる所なる。その、御前の御遊びなどに、ひときざみに選ばるる人びと、それかれといかにぞ」

 何年もこのように引き籠もって過ごしていると、鑑賞力も少し変になったのだろうか、残念なことだ。妙に、人々の才能は、ちょっと習い覚えた芸事でも、見栄えがして他より勝れているところである。あの、御前の管弦の御遊などに、一流の名手として選ばれた人々の、誰それと比較したらどうであろうか」

 とのたまへば、大将、

 とおっしゃるので、大将は、

 「それをなむ、とり申さむと思ひはべりつれど、あきらかならぬ心のままに、およすけてやはと思ひたまふる。上りての世を聞き合はせはべらねばにや、衛門督の和琴、兵部卿宮の御琵琶などをこそ、このころめづらかなる例に引き出ではべめれ。

 「その事を、申し上げようと思っておりましたが、よくも弁えぬくせに、偉そうに言うのもどうかと存じまして。古い昔の勝れた時代を聞き比べておりませんからでしょうか、衛門督の和琴、兵部卿宮の御琵琶などは、最近の珍しく勝れた例に引くようでございます。

 げに、かたはらなきを、今宵うけたまはる物の音どもの、皆ひとしく耳おどろきはべるは。なほ、かくわざともあらぬ御遊びと、かねて思うたまへたゆみける心の騒ぐにやはべらむ。唱歌など、いと仕うまつりにくくなむ。

 なるほど、又とない演奏者ですが、今夜お聞き致しました楽の音色は、皆同じように耳を驚かしました。やはり、このように特別のことでもない御催しと、かねがね思って油断しておりました気持ちが不意をつかれて騒ぐのでしょう。唱歌など、とてもお付き合いしにくうございました。

 和琴は、かの大臣ばかりこそ、かく折につけて、こしらへなびかしたる音など、心にまかせて掻き立てたまへるは、いとことにものしたまへ、をさをさ際離れぬものにはべめるを、いとかしこく整ひてこそはべりつれ」

 和琴は、あの太政大臣だけが、このように臨機応変に、巧みに操った音色などを、思いのままに掻き立てていらっしゃるのは、とても格別上手でいらっしゃったが、なかなか飛び抜けて上手には弾けないものでございますのに、まことに勝れて調子が整ってございました」

 と、めできこえたまふ。

 と、お誉め申し上げなさる。

 「いと、さことことしき際にはあらぬを、わざとうるはしくも取りなさるるかな」

 「いや、それほど大した弾き方ではないが、特別に立派なようにお誉めになるね」

 とて、したり顔にほほ笑みたまふ。

 とおっしゃって、得意顔に微笑んでいらっしゃる。

 「げに、けしうはあらぬ弟子どもなりかし。琵琶はしも、ここに口入るべきことまじらぬを、さいへど、物のけはひ異なるべし。おぼえぬ所にて聞き始めたりしに、めづらしき物の声かなとなむおぼえしかど、その折よりは、またこよなく優りにたるをや」

 「なるほど、悪くはない弟子たちである。琵琶は、わたしが口出しするようなことは何もないが、そうは言っても、どことなく違うはずだ。思いがけない所で初めて聞いた時、珍しい楽の音色だと思われたが、その時からは、又格段上達しているからな」

 と、せめて我かしこにかこちなしたまへば、女房などは、すこしつきしろふ。

 と、強引に自分の手柄のように自慢なさるので、女房たちは、そっとつつきあう。



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