TOP  総目次  源氏物語目次   前へ 次へ
若菜下

第八章 紫の上の物語 死と蘇生    

2. 六条御息所の死霊出現    

 

本文

現代語訳

 いみじく調ぜられて、

 ひどく調伏されて、

 「人は皆去りね。院一所の御耳に聞こえむ。おのれを月ごろ調じわびさせたまふが、情けなくつらければ、同じくは思し知らせむと思ひつれど、さすがに命も堪ふまじく、身を砕きて思し惑ふを見たてまつれば、今こそ、かくいみじき身を受けたれ、いにしへの心の残りてこそ、かくまでも参り来たるなれば、ものの心苦しさをえ見過ぐさで、つひに現はれぬること。さらに知られじと思ひつるものを」

 「他の人は皆去りなさい。院お一人方のお耳に申し上げたい。自分をこのいく月も調伏し困らせなさるのが薄情で辛いので、同じことならお知らせしようと思ったが、そうは言っても命が耐えられないほど、身を粉にして悲嘆に暮れていらっしゃるご様子を拝見すると、今でこそ、このようなあさましい姿に変わっているが、昔の愛執が残っていればこそ、このように参上したので、お気の毒な様子を放って置くことができなくて、とうとう現れ出てしまったのです。決して知られまいと思っていたのに」

 とて、髪を振りかけて泣くけはひ、ただ昔見たまひしもののけのさまと見えたり。あさましく、むくつけしと、思ししみにしことの変はらぬもゆゆしければ、この童女の手をとらへて、引き据ゑて、さま悪しくもせさせたまはず。

 と言って、髪を振り掛けて泣く様子は、まったく昔御覧になった物の怪の恰好と見えた。こんなことがこの世にあろうか、恐ろしいことだと、心底お思い込みになったことが相変わらず忌まわしいことなので、この童女の手を捉えて、じっとさせて、体裁の悪いようにはおさせにならない。

 「まことにその人か。よからぬ狐などいふなるものの、たぶれたるが、亡き人の面伏なること言ひ出づるもあなるを、たしかなる名のりせよ。また人の知らざらむことの、心にしるく思ひ出でられぬべからむを言へ。さてなむ、いささかにても信ずべき」

 「本当にあなたか。良くない狐などと言うもので、気の狂ったのが、亡くなった人の不名誉になることを言い出すということもあると言うから、はっきりと名乗りをせよ。また誰も知らないようなことで、心にはっきりと思い出されるようなことを言いなさい。そうすれば、少しは信じもしよう」

 とのたまへば、ほろほろといたく泣きて、

 とおっしゃると、ぽろぽろとひどく泣いて、

 「わが身こそあらぬさまなれそれながら

   そらおぼれする君は君なり

 「わたしはこんな変わりはてた身の上となってしまったが

   知らないふりをするあなたは昔のままですね

 いとつらし、いとつらし」

 とてもひどい方だわ、とてもひどい方だわ」

 と泣き叫ぶものから、さすがにもの恥ぢしたるけはひ、変らず、なかなかいと疎ましく、心憂ければ、もの言はせじと思す。

 と泣き叫ぶ一方で、そうはいっても恥ずかしがっている様子、昔に変わらず、かえってまことに疎ましい気がし、情けないので、何も言わせまいとお思いになる。

 「中宮の御事にても、いとうれしくかたじけなしとなむ、天翔りても見たてまつれど、道異になりぬれば、子の上までも深くおぼえぬにやあらむ、なほ、みづからつらしと思ひきこえし心の執なむ、止まるものなりける。

 「中宮の御事につけても、大変に嬉しく有り難いことだと、魂が天翔りながら拝見していますが、明幽境を異にしてしまったので、子の身の上までも深く思われないのでしょうか、やはり、自分自身がひどい方だとお思い申し上げた方への愛執が残るのでした。

 その中にも、生きての世に、人より落として思し捨てしよりも、思ふどちの御物語のついでに、心善からず憎かりしありさまをのたまひ出でたりしなむ、いと恨めしく。今はただ亡きに思し許して、異人の言ひ落としめむをだに、はぶき隠したまへとこそ思へ、とうち思ひしばかりに、かくいみじき身のけはひなれば、かく所狭きなり。

 その中でも、生きているうちに、人より軽いお扱いをなさってお見捨てになったことよりも、お親しい者どうしのお話の時に、性格が善くない扱いにくい女であったとおっしゃったのが、まことに恨めしくて。今はもう亡くなってしまったのだからとお許し下さって、他人が悪口を言うのでさえ、打ち消してかばって戴きたいと思うと、その思っただけで、このように恐ろしい身の上なので、このように大変なことになったのです。

 この人を、深く憎しと思ひきこゆることはなけれど、守り強く、いと御あたり遠き心地して、え近づき参らず、御声をだにほのかになむ聞きはべる。

 この方を、心底憎いと思い申すことはないが、あなたの神仏の加護が強くて、とてもご身辺は遠い感じがして、近づき参ることができず、お声さえもかすかに聞くだけでおります。

 よし、今は、この罪軽むばかりのわざをせさせたまへ。修法、読経とののしることも、身には苦しくわびしき炎とのみまつはれて、さらに尊きことも聞こえねば、いと悲しくなむ。

 よし、今はもう、この罪障を軽めることをなさって下さい。修法や読経の大声を立てることも、わが身には苦しく情けない炎となってまつわりつくばかりで、まったく尊いお経の声も聞こえないので、まことに悲しい気がします。

 中宮にも、このよしを伝へ聞こえたまへ。ゆめ御宮仕へのほどに、人ときしろひ嫉む心つかひたまふな。斎宮におはしまししころほひの御罪軽むべからむ功徳のことを、かならずせさせたまへ。いと悔しきことになむありける」

 中宮にも、この旨をお伝え申し上げて下さい。決して御宮仕え中に、他人と争ったり嫉妬したりする気をお持ちになってなりません。斎宮でいらっしゃったころのご罪障を軽くするような功徳のことを、必ずなさるように。ほんとうに残念なことでしたよ」

 など、言ひ続くれど、もののけに向かひて物語したまはむも、かたはらいたければ、封じ込めて、上をば、また異方に、忍びて渡したてまつりたまふ。

 などと、言い続けるが、物の怪に向かってお話なさることも、気が引けることなので、物の怪を封じ込めて、紫の上を、別の部屋に、こっそりお移し申し上げなさる。



TOP  総目次  源氏物語目次 ページトップへ  前へ 次へ