第十章 光る源氏の物語 密通露見後
5. 朧月夜、出家す
本文 |
現代語訳 |
二条の尚侍の君をば、なほ絶えず、思ひ出できこえたまへど、かくうしろめたき筋のこと、憂きものに思し知りて、かの御心弱さも、少し軽く思ひなされたまひけり。 |
二条の尚侍の君を、依然として忘れず、お思い出し申し上げなさるが、このように気がかりな方面の事を、厭わしくお思いになって、あの方のお心弱さも、少しお見下しなさるのだった。 |
つひに御本意のことしたまひてけりと聞きたまひては、いとあはれに口惜しく、御心動きて、まづ訪らひきこえたまふ。今なむとだににほはしたまはざりけるつらさを、浅からず聞こえたまふ。 |
とうとうご出家の本懐を遂げられたとお聞きになってからは、まことにしみじみと残念に、お心が動いて、さっそくお見舞いを申し上げなさる。せめて今出家するとだけでも知らせて下さらなかった冷たさを、心からお恨み申し上げなさる。 |
「海人の世をよそに聞かめや須磨の浦に 藻塩垂れしも誰れならなくに |
「出家されたことを他人事して聞き流していられましょうか わたしが須磨の浦で涙に沈んでいたのは誰ならぬあなたのせいなのですから |
さまざまなる世の定めなさを心に思ひつめて、今まで後れきこえぬる口惜しさを、思し捨てつとも、避りがたき御回向のうちには、まづこそはと、あはれになむ」 |
いろいろな人生の無常さを心の内に思いながら、今まで出家せずに先を越されて残念ですが、お見捨てになったとしても、避けがたいご回向の中には、まず第一にわたしを入れて下さると、しみじみと思われます」 |
など、多く聞こえたまへり。 |
などと、たくさんお書き申し上げなさった。 |
とく思し立ちにしことなれど、この御妨げにかかづらひて、人にはしか表はしたまはぬことなれど、心のうちあはれに、昔よりつらき御契りを、さすがに浅くしも思し知られぬなど、かたがたに思し出でらる。 |
早くからご決意なさった事であるが、この方のご反対に引っ張られて、誰にもそのようにはお表しなさらなかった事だが、心中ではしみじみと昔からの恨めしいご縁を、何と言っても浅くはお思いになれない事など、あれやこれやとお思い出さずにはいらっしゃれない。 |
御返り、今はかくしも通ふまじき御文のとぢめと思せば、あはれにて、心とどめて書きたまふ、墨つきなど、いとをかし。 |
お返事は、今となってはもうこのようなお手紙のやりとりをしてはならない最後とお思いになると、感慨無量となって、念入りにお書きになる、その墨の具合などは、実に趣がある。 |
「常なき世とは身一つにのみ知りはべりにしを、後れぬとのたまはせたるになむ、げに、 |
「無常の世とはわが身一つだけと思っておりましたが、先を越されてしまったとの仰せを思いますと、おっしゃるとおり、 |
海人舟にいかがは思ひおくれけむ 明石の浦にいさりせし君 |
尼になったわたしにどうして遅れをおとりになったのでしょう 明石の浦に海人のようなお暮らしをなさっていたあなたが |
回向には、あまねきかどにても、いかがは」 |
回向は、一切衆生の為のものですから、どうして含まれないことがありましょうか」 |
とあり。濃き青鈍の紙にて、樒にさしたまへる、例のことなれど、いたく過ぐしたる筆づかひ、なほ古りがたくをかしげなり。 |
とある。濃い青鈍色の紙で、樒に挟んでいらっしゃるのは、通例のことであるが、ひどく洒落た筆跡は、今も変わらず見事である。 |