第一章 柏木の物語 女三の宮、薫を出産
4. 女三の宮の返歌を見る
本文 |
現代語訳 |
宮もものをのみ恥づかしうつつましと思したるさまを語る。さてうちしめり、面痩せたまへらむ御さまの、面影に見たてまつる心地して、思ひやられたまへば、げにあくがるらむ魂や、行き通ふらむなど、いとどしき心地も乱るれば、 |
宮も何かと恥ずかしく顔向けできない思いでいられる様子を話す。そのようにうち沈んで、痩せていらっしゃるだろうご様子が、目の前にありありと拝見できるような気がして、ご想像されるので、なるほど抜け出した霊魂は、あちらに行き通うのだろうかなどと、ますます気分もひどくなるので、 |
「今さらに、この御ことよ、かけても聞こえじ。この世はかうはかなくて過ぎぬるを、長き世のほだしにもこそと思ふなむ、いとほしき。心苦しき御ことを、平らかにとだにいかで聞き置いたてまつらむ。見し夢を心一つに思ひ合はせて、また語る人もなきが、いみじういぶせくもあるかな」 |
「今となっては、もう宮の御事は、いっさい申し上げますまい。この世はこうしてはかなく過ぎてしまったが、未来永劫の成仏する障りになるかもしれないと思うと、お気の毒だ。気にかかるお産の事を、せめてご無事に済んだとお聞き申しておきたい。見た夢を独り合点して、また他に語る相手もいないのが、たいそう堪らないことであるなあ」 |
など、取り集め思ひしみたまへるさまの深きを、かつはいとうたて恐ろしう思へど、あはれはた、え忍ばず、この人もいみじう泣く。 |
などと、あれこれと思い詰めていらっしゃる執着の深いことを、一方では嫌で恐ろしく思うが、おいたわしい気持ちは、抑え難く、この人もひどく泣く。 |
紙燭召して、御返り見たまへば、御手もなほいとはかなげに、をかしきほどに書いたまひて、 |
紙燭を取り寄せて、お返事を御覧になると、ご筆跡もたいそう弱々しいが、きれいにお書きになって、 |
「心苦しう聞きながら、いかでかは。ただ推し量り。『残らむ』とあるは、 |
「お気の毒に聞いていますが、どうしてお伺いできましょう。ただお察しするばかりです。お歌に『残ろう』とありますが、 |
立ち添ひて消えやしなまし憂きことを 思ひ乱るる煙比べに 後るべうやは」 |
わたしも一緒に煙となって消えてしまいたいほどです 辛いことを思い嘆く悩みの競いに 後れをとれましょうか |
とばかりあるを、あはれにかたじけなしと思ふ。 |
とだけあるのを、しみじみともったいないと思う。 |
「いでや、この煙ばかりこそは、この世の思ひ出でならめ。はかなくもありけるかな」 |
「いやもう、この煙だけが、この世の思い出であろう。はかないことであったな」 |
と、いとど泣きまさりたまひて、御返り、臥しながら、うち休みつつ書いたまふ。言の葉の続きもなう、あやしき鳥の跡のやうにて、 |
と、ますますお泣きになって、お返事、横に臥せりながら、筆を置き置きしてお書きになる。文句の続きもおぼつかなく、筆跡も妙な鳥の脚跡のようになって、 |
「行方なき空の煙となりぬとも 思ふあたりを立ちは離れじ |
「行く方もない空の煙となったとしても 思うお方のあたりは離れまいと思う |
夕べはわきて眺めさせたまへ。咎めきこえさせたまはむ人目をも、今は心やすく思しなりて、かひなきあはれをだにも、絶えずかけさせたまへ」 |
夕方は特にお眺め下さい。咎め立て申されるお方の目も、今はもうお気になさらずに、せめて何にもならないことですが、憐みだけは絶えず懸けて下さいませ」 |
など書き乱りて、心地の苦しさまさりければ、 |
などと乱れ書きして、気分の悪さがつのって来たので、 |
「よし。いたう更けぬさきに、帰り参りたまひて、かく限りのさまになむとも聞こえたまへ。今さらに、人あやしと思ひ合はせむを、わが世の後さへ思ふこそ口惜しけれ。いかなる昔の契りにて、いとかかることしも心にしみけむ」 |
「もうよい。あまり夜が更けないうちに、お帰りになって、このように最期の様子であったと申し上げて下さい。今となって、人が変だと感づくのを、自分の死んだ後まで想像するのは情けないことだ。どのような前世からの因縁で、このような事が心に取り憑いたのだろうか」 |
と、泣く泣くゐざり入りたまひぬれば、例は無期に迎へ据ゑて、すずろ言をさへ言はせまほしうしたまふを、言少なにても、と思ふがあはれなるに、えも出でやらず。御ありさまを乳母も語りて、いみじく泣き惑ふ。大臣などの思したるけしきぞいみじきや。 |
と、泣き泣きいざってお入りになったので、いつもはいつまでも前に座らせて、とりとめもない話までをおさせになりたくなさっていたのに、お言葉の数も少ない、と思うと悲しくてならないので、帰ることも出来ない。ご様子を乳母も話して、ひどく泣きうろたえる。大臣などがご心配された有様は大変なことであるよ。 |
「昨日今日、すこしよろしかりつるを、などかいと弱げには見えたまふ」 |
「昨日今日と、少し好かったのだが、どうしてたいそう弱々しくお見えなのだろう」 |
と騷ぎたまふ。 |
とお騷ぎになる。 |
「何か、なほとまりはべるまじきなめり」 |
「いいえもう、生きていられそうにないようです」 |
と聞こえたまひて、みづからも泣いたまふ。 |
と申し上げなさって、ご自身もお泣きになる。 |