第六章 夕霧の物語 雲居雁と落葉宮の間に苦慮
3. 雲居雁、夕霧と和歌を詠み交す
本文 |
現代語訳 |
昨日今日つゆも参らざりけるもの、いささか参りなどしておはす。 |
昨日今日と全然お召し上がりにならなかった食事を、少々はお召し上がりになったりなどしていらっしゃる。 |
「昔より、御ために心ざしのおろかならざりしさま、大臣のつらくもてなしたまうしに、世の中の痴れがましき名を取りしかど、堪へがたきを念じて、ここかしこ、すすみけしきばみしあたりを、あまた聞き過ぐししありさまは、女だにさしもあらじとなむ、人ももどきし。 |
「昔から、あなたのために愛情が並大抵でなかった事情は、大臣がひどいお扱いをなさったために、世間から愚かな男だとの評判を受けたが、堪えがたいところを我慢して、あちらこちらが、進んで申し込まれた縁談を、たくさん聞き流して来た態度は、女性でさえそれほどの人はいるまいと、世間の人も皮肉った。 |
今思ふにも、いかでかはさありけむと、わが心ながら、いにしへだに重かりけりと思ひ知らるるを、今は、かく憎みたまふとも、思し捨つまじき人びと、いと所狭きまで数添ふめれば、御心ひとつにもて離れたまふべくもあらず。また、よし見たまへや。命こそ定めなき世なれ」 |
今思うにつけても、どうしてそうであったのかと、自分ながらも、昔でさえ重々しかったと反省されるが、今は、このようにお憎みになっても、お捨てになることのできない子供たちが、とても辺りせましと数増えたようなので、あなたのお気持ち一つで出てお行きになることはできません。また、まあ見ていてくださいよ。寿命とは分からないのがこの世の常です」 |
とて、うち泣きたまふこともあり。女も、昔のことを思ひ出でたまふに、 |
と言って、お泣きになったりすることもある。女も、往時を思い出しなさると、 |
「あはれにもありがたかりし御仲の、さすがに契り深かりけるかな」 |
「しみじみとも世に又となく仲睦まじかった二人の仲が、何と言っても前世の約束が深かったのだな」 |
と、思ひ出でたまふ。なよびたる御衣ども脱いたまうて、心ことなるをとり重ねて焚きしめたまひ、めでたうつくろひ化粧じて出でたまふを、灯影に見出だして、忍びがたく涙の出で来れば、脱ぎとめたまへる単衣の袖をひき寄せたまひて、 |
と、お思い出しなさる。柔らかくなったお召し物をお脱ぎになって、新調の素晴らしいのを重ねて香をたきしめなさり、立派に身繕いし化粧してお出かけになるのを、灯火の光で見送って、堪えがたく涙が込み上げて来るので、脱ぎ置きなさった単衣の袖を引き寄せなさって、 |
「馴るる身を恨むるよりは松島の 海人の衣に裁ちやかへまし |
「長年連れ添って古びたこの身を恨んだりするよりも いっそ尼衣に着替えてしまおうかしら |
なほうつし人にては、え過ぐすまじかりけり」 |
やはり俗世の人のままでは、生きて行くことができないわ」 |
と、独言にのたまふを、立ち止まりて、 |
と、独言としておっしゃるのを、立ち止まって、 |
「さも心憂き御心かな。 |
「何とも嫌なお心ですね。 |
松島の海人の濡衣なれぬとて 脱ぎ替へつてふ名を立ためやは」 |
いくら長年連れ添ったからといって、わたしを見限って 尼になったという噂が立ってよいものでしょうか」 |
うち急ぎて、いとなほなほしや。 |
急いでいて、とても平凡な歌であるよ。 |