第二章 光る源氏の物語 紫の上追悼の夏の物語
1. 花散里や中将の君らと和歌を詠み交わす
本文 |
現代語訳 |
夏の御方より、御衣更の御装束たてまつりたまふとて、 |
夏の御方から、お衣更のご装束を差し上げなさるとあって、 |
「夏衣裁ち替へてける今日ばかり 古き思ひもすすみやはせぬ」 |
「夏の衣に着替えた今日だけは 昔の思いも思い出しませんでしょうか」 |
御返し、 |
お返事、 |
「羽衣の薄きに変はる今日よりは 空蝉の世ぞいとど悲しき」 |
「羽衣のように薄い着物に変わる今日からは はかない世の中がますます悲しく思われます」 |
祭の日、いとつれづれにて、「今日は物見るとて、人びと心地よげならむかし」とて、御社のありさまなど思しやる。 |
賀茂祭の日、とても所在ないので、「今日は見物しようとして、女房たちは気持ちよさそうだろう」と思って、御社の様子などをご想像なさる。 |
「女房など、いかにさうざうしからむ。里に忍びて出でて見よかし」などのたまふ。 |
「女房などは、どんなに手持ち無沙汰だろう。そっと里下がりして見て来なさい」などとおしゃる。 |
中将の君の、東面にうたた寝したるを、歩みおはして見たまへば、いとささやかにをかしきさまして、起き上がりたり。つらつきはなやかに、匂ひたる顔をもて隠して、すこしふくだみたる髪のかかりなど、をかしげなり。紅の黄ばみたる気添ひたる袴、萱草色の単衣、いと濃き鈍色に黒きなど、うるはしからず重なりて、裳、唐衣も脱ぎすべしたりけるを、とかく引きかけなどするに、葵をかたはらに置きたりけるを寄りて取りたまひて、 |
中将の君が、東表の間でうたた寝しているのを、歩いていらっしゃって御覧になると、とても小柄で美しい様子で起き上がった。顔の表情は明るくて、美しい顔をちょっと隠して、少しほつれた髪のかかっている具合など、見事である。紅の黄色味を帯びた袴に、萱草色の単衣、たいそう濃い鈍色の袿に黒い表着など、きちんとではなく重着して、裳や、唐衣も脱いでいたが、あれこれ着掛けなどするが、葵を側に置いてあったのを側によってお取りになって、 |
「いかにとかや。この名こそ忘れにけれ」とのたまへば、 |
「何と言ったかね。この名前を忘れてしまった」とおっしゃると、 |
「さもこそはよるべの水に水草ゐめ 今日のかざしよ名さへ忘るる」 |
「いかにもよるべの水も古くなって水草が生えていましょう 今日の插頭の名前さえ忘れておしまいになるとは」 |
と、恥ぢらひて聞こゆ。げにと、いとほしくて、 |
と、恥じらいながら申し上げる。なるほどと、お気の毒なので、 |
「おほかたは思ひ捨ててし世なれども 葵はなほや摘みをかすべき」 |
「だいたいは執着を捨ててしまったこの世ではあるが この葵はやはり摘んでしまいそうだ」 |
など、一人ばかりをば思し放たぬけしきなり。 |
などと、一人だけはお思い捨てにならない様子である。 |