第一章 宇治八の宮の物語 隠遁者八の宮
4. ある春の日の生活
本文 |
現代語訳 |
春のうららかなる日影に、池の水鳥どもの、羽うち交はしつつ、おのがじしさへづる声などを、常は、はかなきことに見たまひしかども、つがひ離れぬをうらやましく眺めたまひて、君たちに、御琴ども教へきこえたまふ。いとをかしげに、小さき御ほどに、とりどり掻き鳴らしたまふ物の音ども、あはれにをかしく聞こゆれば、涙を浮けたまひて、 |
春のうららかな日の光に、池の水鳥たちが、互いに羽を交わしながら、めいめいに囀っている声などを、いつもは、何でもないことと御覧になっていたが、つがいの離れずにいるのを羨ましく眺めなさって、姫君たちに、お琴類をお教え申し上げなさる。とてもかわいらしげで、小さいお年で、それぞれ掻き鳴らしなさる楽の音色は、しみじみとおもしろく聞こえるので、涙を浮かべなさって、 |
「うち捨ててつがひ去りにし水鳥の 仮のこの世にたちおくれけむ |
「見捨てて去って行ったつがいでいた水鳥の雁は はかないこの世に子供を残して行ったのだろうか |
心尽くしなりや」 |
気苦労の絶えないことだ」 |
と、目おし拭ひたまふ。容貌いときよげにおはします宮なり。年ごろの御行ひにやせ細りたまひにたれど、さてしも、あてになまめきて、君たちをかしづきたまふ御心ばへに、直衣の萎えばめるを着たまひて、しどけなき御さま、いと恥づかしげなり。 |
と、目を拭いなさる。容貌がとても美しくいらっしゃる宮である。長年のご勤行のために痩せ細りなさったが、それでも気品があって優美で、姫君たちをお世話なさるお気持ちから、直衣の柔らかくなったのをお召しになって、つくろわないご様子、とても恥ずかしくなるほど立派である。 |
姫君、御硯をやをらひき寄せて、手習のやうに書き混ぜたまふを、 |
姫君、お硯を静かに引き寄せて、手習いのように書き加えなさるのを、 |
「これに書きたまへ。硯には書きつけざなり」 |
「これにお書きなさい。硯には書き付けるものでありません」 |
とて、紙たてまつりたまへば、恥ぢらひて書きたまふ。 |
とおっしゃって、紙を差し上げなさると、恥じらってお書きになる。 |
「いかでかく巣立ちけるぞと思ふにも 憂き水鳥の契りをぞ知る」 |
「どうしてこのように大きくなったのだろうと思うにも 水鳥のような辛い運命が思い知られます」 |
よからねど、その折は、いとあはれなりけり。手は、生ひ先見えて、まだよくも続けたまはぬほどなり。 |
よい歌ではないが、その状況は、とてもしみじみと心打たれるのであった。筆跡は、将来性が見えるが、まだ上手にお書き綴りにならないお年である。 |
「若君も書きたまへ」 |
「若君もお書きなさい」 |
とあれば、今すこし幼げに、久しく書き出でたまへり。 |
とおっしゃると、もう少し幼そうに、長くかかってお書きになった。 |
「泣く泣くも羽うち着する君なくは われぞ巣守になりは果てまし」 |
「泣きながらも羽を着せかけてくださるお父上がいらっしゃらなかったら わたしは大きくなることはできなかったでしょうに」 |
御衣どもなど萎えばみて、御前にまた人もなく、いと寂しくつれづれげなるに、さまざまいとらうたげにてものしたまふを、あはれに心苦しう、いかが思さざらむ。経を片手に持たまひて、かつ読みつつ唱歌をしたまふ。 |
お召し物など皺になって、御前に他に女房もなく、とても寂しく所在なさそうなので、それぞれたいそうかわいらしくいらっしゃるのを、不憫でいたわしいと、どうして思わないことがあろうか。お経を片手に持ちなさって、一方では読経しながら唱歌もなさる。 |
姫君に琵琶、若君に箏の御琴、まだ幼けれど、常に合はせつつ習ひたまへば、聞きにくくもあらで、いとをかしく聞こゆ。 |
姫君に琵琶、若君に箏のお琴を、まだ幼いけれど、いつも合奏しながらお習いになっているので、聞きにくいこともなく、たいそう美しく聞こえる。 |