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橋姫

第四章 薫の物語 薫、出生の秘密を知る   

1. 十月初旬、薫宇治へ赴く   

 

本文

現代語訳

 十月になりて、五、六日のほどに、宇治へ参うでたまふ。

 十月になって、五、六日の間に、宇治へ参られる。

「網代をこそ、このころは御覧ぜめ」と、聞こゆる人びとあれど、

 「網代を、この頃は御覧なさい」と、申し上げる人びとがいるが、

 「何か、その蜉蝣に争ふ心にて、網代にも寄らむ」

 「どうして、その蜉蝣とはかなさを争うような身で、網代の側に行こうか」

 と、そぎ捨てたまひて、例の、いと忍びやかにて出で立ちたまふ。軽らかに網代車にて、かとりの直衣指貫縫はせて、ことさらび着たまへり。

 と、お省きなさって、例によって、たいそうひっそりと出立なさる。気軽に網代車で、かとりの直衣指貫を仕立てさせて、ことさらお召しになっていた。

 宮、待ち喜びたまひて、所につけたる御饗応など、をかしうしなしたまふ。暮れぬれば、大殿油近くて、さきざき見さしたまへる文どもの深きなど、阿闍梨も請じおろして、義など言はせたまふ。

 宮は、お待ち喜びになって、場所に相応しい饗応など、興趣深くなさる。日が暮れたので、大殿油を近くに寄せて、前々から読みかけていらした経文類の深い意味などを、阿闍梨も下山してもらい、釈義などを言わせなさる。

 うちもまどろまず、川風のいと荒らましきに、木の葉の散りかふ音、水の響きなど、あはれも過ぎて、もの恐ろしく心細き所のさまなり。

 少しもうとうととなさらずに、川風がたいそう荒々しいうえに、木の葉が散り交う音、水の響きなど、しみじみとした情感なども通り越して、何となく恐ろしく心細い場所の様子である。

 明け方近くなりぬらむと思ふほどに、ありししののめ思ひ出でられて、琴の音のあはれなることのついで作り出でて、

 明け方近くになったろうと思う時に、先日の夜明けの様子が思い出されて、琴の音がしみじみと身にしみるという話のきっかけを作り出して、

 「さきのたびの、霧に惑はされはべりし曙に、いとめづらしき物の音、一声承りし残りなむ、なかなかにいといぶかしう、飽かず思うたまへらるる」など聞こえたまふ。

 「前回の、霧に迷わされた夜明けに、たいそう珍しい楽の音を、ちょっと拝聴した残りが、かえっていっそう聞きたく、物足りなく思っております」などと申し上げなさる。

 「色をも香をも思ひ捨ててし後、昔聞きしことも皆忘れてなむ」

 「美しい色や香も捨ててしまった後は、昔聞いたこともみな忘れてしまいました」

 とのたまへど、人召して、琴取り寄せて、

 とおっしゃるが、人を召して、琴を取り寄せて、

 「いとつきなくなりにたりや。しるべする物の音につけてなむ、思ひ出でらるべかりける」

 「まことに似合わなくなってしまった。先導してくれる音に付けて、思い出されようかしら」

 とて、琵琶召して、客人にそそのかしたまふ。取りて調べたまふ。

 と言って、琵琶を召して、客人にお勧めなさる。手に取って調子を合わせなさる。

 「さらに、ほのかに聞きはべりし同じものとも思うたまへられざりけり。御琴の響きからにやとこそ、思うたまへしか」

 「まったく、かすかに聞きましたものと同じ楽器とは思われません。お琴の響きからかと、存じられました」

 とて、心解けても掻きたてたまはず。

 と言って、気を許してお弾きにならない。

 「いで、あな、さがなや。しか御耳とまるばかりの手などは、何処よりかここまでは伝はり来む。あるまじき御ことなり」

 「何と、まあ、口の悪い。そのようにお耳にとまるほどの弾き方などは、どこからここまで伝わって来ましょう。ありえない事です」

 とて、琴掻きならしたまへる、いとあはれに心すごし。かたへは、峰の松風のもてはやすなるべし。いとたどたどしげにおぼめきたまひて、心ばへあり。手一つばかりにてやめたまひつ。

 と言って、琴を掻き鳴らしなさる、実にしみじみとぞっとする程である。一方では、峰の松風が引き立てるのであろう。たいそうおぼつかなく不確かなようにお弾きになって、趣きがある。曲目を一つだけでお止めになった。



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