第二章 薫の物語 秋、八の宮死去す
5. 八月二十日、八の宮、山寺で死去
本文 |
現代語訳 |
かの行ひたまふ三昧、今日果てぬらむと、いつしかと待ちきこえたまふ夕暮に、人参りて、 |
あの勤行なさる念仏三昧は、今日終わることだろうと、今か今かとお待ち申し上げていらっしゃる夕暮に、使者が参って、 |
「今朝より、悩ましくてなむ、え参らぬ。風邪かとて、とかくつくろふとものするほどになむ。さるは、例よりも対面心もとなきを」 |
「今朝から、気分が悪くなって、参ることができない。風邪かと思って、あれこれと手当てしているところです。それにしても、いつもよりお目にかかりたいのだが」 |
と聞こえたまへり。胸つぶれて、いかなるにかと思し嘆き、御衣ども綿厚くて、急ぎせさせたまひて、たてまつれなどしたまふ。二、三日怠りたまはず。「いかに、いかに」と、人たてまつりたまへど、 |
と申し上げなさっていた。胸がどきりとして、どのようなことでかとお嘆きになり、御法衣類に綿を厚くして、急いで準備させなさって、お届け申し上げなさる。二、三日良くおなりにならない。「どのようですか、どのようですか」と、使者を差し向けなさるが、 |
「ことにおどろおどろしくはあらず。そこはかとなく苦しうなむ。すこしもよろしくならば、今、念じて」 |
「特にひどく悪いというのではない。どことなく苦しいのです。もう少し良くなっら、じきに、我慢してでも帰ろう」 |
など、言葉にて聞こえたまふ。阿闍梨つとさぶらひて仕うまつりける。 |
などと、口上で申し上げなさる。阿闍梨がぴったりと付き添ってお世話申し上げているのであった。 |
「はかなき御悩みと見ゆれど、限りのたびにもおはしますらむ。君たちの御こと、何か思し嘆くべき。人は皆、御宿世といふもの異々なれば、御心にかかるべきにもおはしまさず」 |
「ちょっとしたご病気と見えるが、最期でいらっしゃるかも知れない。姫君たちのご将来の事は、何のお嘆きになることがありましょうか。人は皆、それぞれ運命というものは別々なので、ご心配なさっても何にもなりません」 |
と、いよいよ思し離るべきことを聞こえ知らせつつ、「今さらにな出でたまひそ」と、諌め申すなりけり。 |
と、ますます出離なさらねばならないことを申し上げ知らせながら、「いまさら下山なさいますな」と、ご忠告申し上げるのであった。 |
八月二十日のほどなりけり。おほかたの空のけしきもいとどしきころ、君たちは、朝夕、霧の晴るる間もなく、思し嘆きつつ眺めたまふ。有明の月のいとはなやかにさし出でて、水の面もさやかに澄みたるを、そなたの蔀上げさせて、見出だしたまへるに、鐘の声かすかに響きて、「明けぬなり」と聞こゆるほどに、人びと来て、 |
八月二十日のころであった。ただでさえ空の様子のひときわ物悲しいころ、姫君たちは、朝夕の、霧の晴間もなく、お嘆きになりながら物思いに沈んでいらっしゃる。有明の月がたいそう明るく差し出して、川の表面もはっきりと澄んでいるのを、そちらの蔀を上げさせて、お覗きになっていらっしゃると、鐘の音がかすかに響いて来て、「夜が明けたようだ」と申し上げるころに、人びとが来て、 |
「この夜中ばかりになむ、亡せたまひぬる」 |
「この夜半頃に、お亡くなりになりました」 |
と泣く泣く申す。心にかけて、いかにとは絶えず思ひきこえたまへれど、うち聞きたまふには、あさましくものおぼえぬ心地して、いとどかかることには、涙もいづちか去にけむ、ただうつぶし臥したまへり。 |
と泣く泣く申し上げる。心に懸けて、どうしていられるかと絶えずご心配申し上げていらっしゃったが、突然お聞きになって、驚いて真暗な気持ちになって、ますますこのようなことには、涙もどこに行っておしまいになったのであろうか、ただうつ伏していらっしゃった。 |
いみじき目も、見る目の前にておぼつかなからぬこそ、常のことなれ、おぼつかなさ添ひて、思し嘆くこと、ことわりなり。しばしにても、後れたてまつりて、世にあるべきものと思しならはぬ御心地どもにて、いかでかは後れじと泣き沈みたまへど、限りある道なりければ、何のかひなし。 |
悲しい死別といっても、目の当たりに立ち会ってはっきり見届けるのが、世の常のことであるが、どのような最期であったのかの心残りも添わって、お嘆きになることは、もっともなことである。片時の間でも、先立たれ申しては、この世に生きていられようとは考えていらっしゃらなかったお二方なので、是非とも後を追いたいと泣き沈んでいらっしゃるが、寿命の定まった運命のある死出の旅路だったので、何の効もない。 |