第三章 浮舟の物語 浮舟の母、中君に娘の浮舟を託す
6. 浮舟の母、中君に娘を託す
本文 |
現代語訳 |
君は、忍びてのたまひつることを、ほのめかしのたまふ。 |
女君は、こっそりとおっしゃった話を、それとなくおっしゃる。 |
「思ひ初めつること、執念きまで軽々しからずものしたまふめるを、げに、ただ今のありさまなどを思へば、わづらはしき心地すべけれど、かの世を背きても、など思ひ寄りたまふらむも、同じことに思ひなして、試みたまへかし」 |
「思いはじめたことは、執念深いまでに軽々しくなくいらっしゃるようなのを、なるほど、ただ今の様子などを思うと、やっかいな気持ちがしましょうが、あの出家をしても、などとお考えになるのも、同じこととお思いになって、お試しなさいませ」 |
とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
「つらき目見せず、人にあなづられじの心にてこそ、鳥の音聞こえざらむ住まひまで思ひたまへおきつれ。げに、人の御ありさまけはひを見たてまつり思ひたまふるは、下仕へのほどなどにても、かかる人の御あたりに、馴れきこえむは、かひありぬべし。まいて若き人は、心つけたてまつりぬべくはべるめれど、数ならぬ身に、もの思ふ種をやいとど蒔かせて見はべらむ。 |
「つらい目にあわず、誰からも馬鹿にされまいとの考えで、鳥の声が聞こえないような深山での生活まで考えておりました。おっしゃるように、殿のご様子や態度などを拝見して存じますことは、下仕えの身分などであっても、このような方のご身辺で、親しくしていただけるのは、生き甲斐のあることでしょう。まして若い女は、きっと心をお寄せ申し上げるにちがいないでしょうが、物の数にも入らない身で、物思いの種をますます蒔かせることになりましょうか。 |
高きも短きも、女といふものは、かかる筋にてこそ、この世、後の世まで、苦しき身になりはべるなれ、と思ひたまへはべればなむ、いとほしく思ひたまへはべる。それもただ御心になむ。ともかくも、思し捨てず、ものせさせたまへ」 |
身分の高い者も低い者も、女というものは、このような男女の仲のことで、現世と、来世まで、苦しい身になるものです、と存じておりますので、かわいそうに存じております。その話もただお気持ちに任せます。ともかくも、お見捨てにならず、お世話くださいませ」 |
と聞こゆれば、いとわづらはしくなりて、 |
と申し上げるので、たいそうやっかいになって、 |
「いさや。来し方の心深さにうちとけて、行く先のありさまは知りがたきを」 |
「さあね。過去の思いやり深さに気を許しても、将来の様子は分からないことです」 |
とうち嘆きて、ことに物ものたまはずなりぬ。 |
とためいきをついて、他には何もおっしゃらずになった。 |
明けぬれば、車など率て来て、守の消息など、いと腹立たしげに脅かしたれば、 |
夜が明けたので、車などを引き出して来て、介の手紙などが、とても立腹した文面で脅かしていたので、 |
「かたじけなく、よろづに頼みきこえさせてなむ。なほ、しばし隠させたまひて、巌の中にとも、いかにとも、思ひたまへめぐらしはべるほど、数にはべらずとも、思ほし放たず、何ごとをも教へさせたまへ」 |
「恐れ多いことですが、万事お頼み申し上げます。やはり、もうしばらくお隠しになって、巌の中なりとも、どこなりとも、思案いたします間は、人並みの者でございませんが、お見捨てなく、何事もお教えくださいませ」 |
など聞こえおきて、この御方も、いと心細く、ならはぬ心地に、立ち離れむを思へど、今めかしくをかしく見ゆるあたりに、しばしも見馴れたてまつらむと思へば、さすがにうれしくもおぼえけり。 |
などと申し上げておいて、この御方も、たいそう心細く、初めてのことで、別れることを心配するが、はなやかで美しく見える所で、しばらくの間もお親しみ申せると思うと、そうはいっても嬉しく思われるのだった。 |