第四章 浮舟と匂宮の物語 匂宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す
3. 匂宮と浮舟、橘の小島の和歌を詠み交す
本文 |
現代語訳 |
夜のほどにて立ち帰りたまはむも、なかなかなべければ、ここの人目もいとつつましさに、時方にたばからせたまひて、「川より遠方なる人の家に率ておはせむ」と構へたりければ、先立てて遣はしたりける、夜更くるほどに参れり。 |
夜のうちにお帰りになるのも、かえって来なかったほうがましなくらいだから、こちらの人目もとても憚れるので、時方に計略をめぐらせなさって、「川向こうの人の家に連れて行こう」と考えていたので、先立って遣わしておいたのが、夜の更けるころに参上した。 |
「いとよく用意してさぶらふ」 |
「とてもよく準備してございます」 |
と申さす。「こは、いかにしたまふことにか」と、右近もいと心あわたたしければ、寝おびれて起きたる心地も、わななかれて、あやし。童べの雪遊びしたるけはひのやうにぞ、震ひ上がりにける。 |
と申し上げさせる。「これは、どうなさることか」と、右近もとても気がそぞろなので、寝惚けて起きている気持ちも、ぶるぶると震えて、正体もない。子供が雪遊びをしている時のように、震え上がってしまった。 |
「いかでか」 |
「どうしてそのようなことが」 |
なども言ひあへさせたまはず、かき抱きて出でたまひぬ。右近はこの後見にとまりて、侍従をぞたてまつる。 |
などという余裕もお与えにならず、抱いてお出になった。右近はこちらの留守居役に残って、侍従をお供申させる。 |
いとはかなげなるものと、明け暮れ見出だす小さき舟に乗りたまひて、さし渡りたまふほど、遥かならむ岸にしも漕ぎ離れたらむやうに心細くおぼえて、つとつきて抱かれたるも、いとらうたしと思す。 |
実に頼りないものと、毎日眺めている小さい舟にお乗りになって、漕ぎ渡りなさるとき、遥か遠い岸に向かって漕ぎ離れて行ったような心細い気持ちがして、ぴたりとくっついて抱かれているのを、とてもいじらしいとお思いになる。 |
有明の月澄み昇りて、水の面も曇りなきに、 |
有明の月が澄み上って、川面も澄んでいるところに、 |
「これなむ、橘の小島」 |
「これが、橘の小島です」 |
と申して、御舟しばしさしとどめたるを見たまへば、大きやかなる岩のさまして、されたる常磐木の蔭茂れり。 |
と申して、お舟をしばらくお止めになったので御覧になると、大きな岩のような恰好をして、しゃれた常磐木が茂っていた。 |
「かれ見たまへ。いとはかなけれど、千年も経べき緑の深さを」 |
「あれをご覧なさい。とても頼りなさそうですが、千年も生きるにちがいない緑の深さです」 |
とのたまひて、 |
とおっしゃって、 |
「年経とも変はらむものか橘の 小島の崎に契る心は」 |
「何年たとうとも変わりません 橘の小島の崎で約束するわたしの気持ちは」 |
女も、めづらしからむ道のやうにおぼえて、 |
女も、珍しい所へ来たように思われて、 |
「橘の小島の色は変はらじを この浮舟ぞ行方知られぬ」 |
「橘の小島の色は変わらないでも この浮舟のようなわたしの身はどこへ行くのやら」 |
折から、人のさまに、をかしくのみ何事も思しなす。 |
折から、女も美しいので、ただもう素晴らしくお思いになる。 |
かの岸にさし着きて降りたまふに、人に抱かせたまはむは、いと心苦しければ、抱きたまひて、助けられつつ入りたまふを、いと見苦しく、「何人を、かくもて騷ぎたまふらむ」と見たてまつる。時方が叔父の因幡守なるが領ずる荘に、はかなう造りたる家なりけり。 |
あちらの岸に漕ぎ着いてお降りになるとき、供人に抱かせなさるのは、とてもつらいので、お抱きになって、助けられながらお入りになるのを、とても見苦しく、「どのような人を、こんなに大騒ぎなさっているのだろう」と拝見する。時方の叔父で因幡守である人が所領する荘園に、かりそめに建てた家なのであった。 |
まだいと粗々しきに、網代屏風など、御覧じも知らぬしつらひにて、風もことに障らず、垣のもとに雪むら消えつつ、今もかき曇りて降る。 |
まだとても手入れが行き届いていず、網代屏風など、御覧になったこともない飾り付けで、風も十分に防ぎきれず、垣根のもとに雪がまだらに残っていて、今でも曇っては雪が降る。 |