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手習

第六章 浮舟の物語 薫、浮舟生存を聞き知る   

4. 浮舟、尼君と語り交す   

 

本文

現代語訳

 「忘れたまはぬにこそは」とあはれに思ふにも、いとど母君の御心のうち推し量らるれど、なかなか言ふかひなきさまを見え聞こえたてまつらむは、なほつつましくぞありける。かの人の言ひつけしことどもを、染め急ぐを見るにつけても、あやしうめづらかなる心地すれど、かけても言ひ出でられず。裁ち縫ひなどするを、

 「お忘れになっていないのだ」としみじみと思うが、ますます母君のご心中が推し量られるが、かえって何とも言いようのない姿をお見せ申し上げるのは、やはりとても気がひけるのであった。あの人が言ったことなど、衣装の染める準備をするのを見るにつけても、不思議な有りえないような気がするが、とても口にはお出しになれない。物を裁ったり縫ったりなどするのを、

 「これ御覧じ入れよ。ものをいとうつくしうひねらせたまへば」

 「これを手伝ってください。とても上手に折り曲げなされるから」

 とて、小袿の単衣たてまつるを、うたておぼゆれば、「心地悪し」とて、手も触れず臥したまへり。尼君、急ぐことをうち捨てて、「いかが思さるる」など思ひ乱れたまふ。紅に桜の織物の袿重ねて、

 と言って、小袿の単衣をお渡し申すのを、嫌な気がするので、「気分が悪い」と言って、手も触れず横になっていらっしゃった。尼君は、急ぐことを放って、「どのようなお加減か」などと心配なさる。紅に桜の織物の袿を重ねて、

 「御前には、かかるをこそ奉らすべけれ。あさましき墨染なりや」

 「御前様には、このような物をお召しになるのがよいでしょうに。あさましい墨染ですこと」

 と言ふ人あり。

 と言う女房もいる。

 「尼衣変はれる身にやありし世の

  形見に袖をかけて偲ばむ」

 「尼衣に変わった身の上で、昔の形見として

  この華やかな衣装を身につけて、今さら昔を偲ぼうか」

 と書きて、「いとほしく、亡くもなりなむ後に、物の隠れなき世なりければ、聞きあはせなどして、疎ましきまでに隠しけるなどや思はむ」など、さまざま思ひつつ、

 と書いて、「お気の毒に、亡くなった後に、隠し通すこともできない世の中なので、聞き合わせたりなどして、疎ましいまでに隠していた、と思うだろうか」などと、いろいろと思いながら、

 「過ぎにし方のことは、絶えて忘れはべりにしを、かやうなることを思し急ぐにつけてこそ、ほのかにあはれなれ」

 「過ぎ去ったことは、すっかり忘れてしまいましたので、このようなことをお急ぎになることにつけ、何かしらしみじみと感じられるのです」

 とおほどかにのたまふ。

 とおっとりとおっしゃる。

 「さりとも、思し出づることは多からむを、尽きせず隔てたまふこそ心憂けれ。身には、かかる世の常の色あひなど、久しく忘れにければ、なほなほしくはべるにつけても、昔の人あらましかば、など思ひ出ではべる。しか扱ひきこえたまひけむ人、世におはすらむ。やがて、亡くなして見はべりしだに、なほいづこにあらむ、そことだに尋ね聞かまほしくおぼえはべるを、行方知らで、思ひきこえたまふ人びとはべるらむかし」

 「そうはおっしゃっても、お思い出しになることは多くありましょうが、いつまでもお隠しになっているのが情けないですわ。わたしは、このような世俗の人の着る色合いなどは、長いこと忘れてしまったので、平凡にしかできませんので、亡くなった娘が生きていたら、などと思い出されます。そのようにお世話申し上げなさった母君は、この世においでですか。そのまま、娘を亡くした母でさえ、やはりどこかに生きていようか、その居場所だけでも尋ね聞きたく思われますのに、その行く方も分からず、ご心配申し上げていらっしゃる方々がございましょう」

 とのたまへば、

 とおっしゃるので、

 「見しほどまでは、一人はものしたまひき。この月ごろ亡せやしたまひぬらむ」

 「俗世にいた時は、片親ございました。ここ数か月の間にお亡くなりなったかも知れません」

 とて、涙の落つるを紛らはして、

 と言って、涙が落ちるのを紛らわして、

 「なかなか思ひ出づるにつけて、うたてはべればこそ、え聞こえ出でね。隔ては何ごとにか残しはべらむ」

 「かえって思い出しますことにつけて、嫌に思われますので、申し上げることができません。隠し事はどうしてございましょうか」

 と、言少なにのたまひなしつ。

 と、言葉少なにおっしゃった。



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