1.
書名
枕草子の書名については、平安期の他の女流の作品に見られる如く、多くの問題を含んでいる。例えば、その命名者について作者みずからであるのか、それとも後人であるのか、また、書名としてはなんと呼ぶのが、その古来の正統的なものであるのか、なお、書名の意味するものはどのようなものであるのか、などと多くの考えるべき事柄がある。
江戸時代の尾崎雅嘉は、その群書一覧に「昔は此草子の名をもたゞちに清少納言といへりつれづれ草には枕の草子とかけり」と説明しているが、古写本についてみると、その外題においても、内題においても、雅嘉のいうが如く「清少納言」と称した称呼をもつものは、ほとんどない。江戸時代も中期に下った、所謂慶安版本に「清少納言」とあるのみである。他の信頼度の高い諸伝本においては、殆んど「清少納言枕草子」とあると言ってよい。三巻本のもっとも正しい伝来をしていると認められる、陽明文庫蔵本、勧修寺家蔵本、ともに「清少納言枕草子」であり、伝能因所持本にしても、三条西家蔵本について見ると、その目録に「清少納言枕草子」とある。堺本系統に高野辰之氏旧蔵本をはじめ「枕草紙」とあるようである。こうみてくると、古写本における書名は「清少納言枕草子」が圧倒的で、堺本に「枕草紙」という書名をみるのみである。
しかし、これに反して、他の文献に見られる書名は、@「清少納言」⇒八雲御抄巻五、淵・渡の条、A「清少納言記」⇒八雲御抄巻一、禁秘御抄、B「清少納言抄」⇒八雲御抄巻三、馬、巻五、野・市・橋等の条、C「清少納言草子」⇒八雲御抄巻五、杜・里の条、D「清少納言枕草子」⇒本朝書籍目録仮名の部、八雲御抄巻一、河海抄、花鳥余情等、E「清少納言枕」⇒八雲御抄巻五、里の条、F「枕草子」⇒無名草子、宝物集巻二、三代集之間事、伝定家筆の「臨時祭試楽調楽事」、大鏡古本裏書、つれづれ草、河海抄、花鳥余情等であり、以上の如く多様に称されている。しかし、「清少納言」と単一にいうものは、やはり数少く、書名としてはもっとも不安定なもので、明月記天福元年三月廿日甲子の記事は、この例に使用しうるか否か疑問である。「清少納言記」「清少納言抄」「清少納言枕草子」は一連のものであり、作者みずからの命名でないとすると、「記」、「抄」と称せられることもあったであろうし、「清少納言枕草子」はその系列のもっとも整ったものであろう。単純に「枕草子」とのみ称せられているものも多くの文献に見うけられる。しかし、これら他文献紀載例をみても書名としては「清少納言枕草子」というのが古来からの、正統的な、標準的な名称であると考えてよいであろう。
「清少納言枕草子」という書名の附与理由についても、多くの論がある。今それを便宜に従ってまとめてみる。
A欧文以外の理由によるもの
I草子の外形以外の理由
a文章形式によるもの
1枕詞の草子(ものはづけの形式)春曙抄、盤斎抄、旁註
b文章内容によるもの
2私の日記 盤斎抄一説、旁註一説
3身辺座右の草子 教長、契沖、高尚
4秘蔵の草子 関根博士、吉田幸一氏、花見朔巳氏
5枕を生魂の集中保持されているものととく 折口博士、高崎博士
U草子の外形による理由
6 伊勢貞丈安斎随筆巻之二
B跋文に理由ありとするもの
7「枕にこそし侍らむ」と云った草子ゆえ 春雨抄一説、春海
8枕にこそはし侍らむは「何やかや」の意味 山岸先生
9枕にこそはし侍らむは枕草子の略称 契沖
10枕にこそは侍らむを催馬楽に求めるもの 原田清氏
11枕にこそは侍らむを漢詩に求めるもの
イ文選に求めるもの 植松安氏
口文集に求めるもの 池田博士
書名の理由が、かくの如くいろいろに称されているけれども、それは作品の文章形式即ち題詞について叙述する形式と、作品の内部からする歌枕的性質、また跋文に「枕にこそは侍らめ」という文章などに原因がありそうに見え、一つの理由には限定しえない。Aの部においては1、3などが妥当であろう。3については、同時代の源信に枕雙紙という著述があるし、栄花物語「若ば枝」に普通名詞として使用されており、Bにおける各種の説も簡単には否定しえない。なお、命名者については、池田博士、山岸先生とも、古来多様に称されてきたことなどから後人説をとっておられるのに従うべきであろう。
枕草子の「草子」の用字であるが、日本紀略、醍醐天皇延喜十九年十一月二日の条に、
詔以二真言根本阿闇梨贈大僧正空海入唐求法諸文冊子策卅帖。安置経蔵
とあり、「冊子」の用字をみる。小右記、権記には「草子」、御堂関白記には「草紙」、仙源抄には「双紙、双子」、大槐秘抄、明日香井集には「造紙、造紙箱」と見える。「さうし」は、「冊子」を正字とし、その音便であろう。すると、音便をもって「さうし」という言葉を使用するようになってからは、その用字として、「草子」「草紙」「双紙」などという用字も生じたのであろう。またその意味も、音便説を認めると契沖や春曙抄にいう「草案」の意味はなかったであろう。「さうし」は書籍の巻子という形式に対する「綴じ本」という意味で、字書類には、倭名抄、類聚名義抄になく、伊呂波字類抄にはじめて見え、黒川本によると巻下、「左」の部、雑物に「草子」とある。
2. 作 者
作者の清少納言について項目に従って述べたい。
〔家 系〕 家系は清原真人であるが、新撰姓氏録所収の「清原真人」とは別系であるようである。日本後紀、文徳実録、三代実録、公卿補任などの文献に見られる清原氏下賜記録は約二十回で、人数にして百九十名程度の人々が清原真人になっているが、これらの人々は大部分が、天武天皇の血脈を引いている人々で、清少納言もそれらの中の家系をうけているものと思われる。この清原は、天武天皇の皇居の地である「飛島清御原」にの地名をとったものと考えられる。姓は、皇別であるので真人である。住所は大体左京のようである。これらの清少納言の同系と思われる人々のうち、右大臣夏野、参議長谷、同峯成が一往官吏としてもっともあらわれている。しかし時代が下って、元輔や清少納言時代になると、系図類は、わずかに清少納言などの一系を残すのみになっている。なお、後世の儒家の清原氏は、尊卑分脈にも注記されている如く寛弘元年、海宿禰から氏姓を改めた人で、清少納言などとの関係は濃いものではないようである。
〔父 母〕 父元輔は、三十六人歌仙伝に「天暦五年正月任河内権少掾、応和元年三月任少監物蔵人下、二年正月任中監物、康保三年正月任大蔵少丞、四年十月任民部少丞 十二月任大丞、安和二年九月廿一日叙従五位下省、十月任河内権守、天延二年正月任周防守、八月兼鋳銭長官、天元三年三月十九日叙従五位上 寛和二年正月任肥後守、永祚二年六月卒年八十三」とあり、その官歴の大略を知ることが出来る。なお、注記の条に「深養父孫、従五位下行下総守春光一男」とあるので、元輔は、春光の長男であり、祖父は深養父であることがわかる。元輔は延喜八年の生れで、あたかも古今集撰進という時代に当っており、また貫之が歿したのを天慶八年という説に従えば、その折の元輔は三十八歳ということになる。元輔の和歌の師承関係は記録にないが、祖父の深養父と貫之、兼輔とは、後撰集の巻四の和歌をもってみると、親しいものがあったようであるので、先輩としての影響をうけたのではなかろうか。元輔の勅撰集入集歌は約一〇六首、貫之の二六八首ぐらいと比較すると劣るが、躬恒の一一三首とほぼ匹敵し、後撰集の撰者の中では、大中臣能宣の一二三首が元輔の上位にある。元輔は、官吏としては受領で終ったのであるが、和歌の上において十分に文化的な役割を果したものといってよいであろう。なお歿した場所は、肥後守としての任地であったようである。その人柄については、今昔物語巻廿八に「此ノ元輔ハ馴者ノ物可咲ク云テ、人咲ハスルヲ役ト為ル翁」と評されている。
母については殆んど資料がなく、そういう点から考えて、元輔や清少納言に比較すると、さして特徴のない、所謂平凡な女性であったのではなかろうかと思われる。
〔出 生〕 清少納言の出生については、資料がなく、いずれも推定の域を出ない。季吟は、春曙抄巻一「清涼殿のうしとらのすみ」の段、巻九「宮にはじめて参りたる比」の段に、¬清少此時三十歳にも過たるにや」「清少いま三十歳ばかりにや有けん」などと推定している。清涼殿の段の記事が、正暦五年、宮にはじめての段が同四年と推定することが許されると、そのころ三十歳ばかりという事になり、正暦四年を三十歳と仮定して逆算すると、村上天皇の康保元年(九六四)の出生となる。この推定は、作者自身の語るところに根拠をおいたもので大体当をえたものであろう。その他、桜井秀博士、梅沢和軒氏、金子元臣氏、坂元雪鳥先生、関根博士などに説がある。近年、橘則光を夫とする説が提唱され、それに従って生年を考える立場も生じ、則光が康保二年の生れであり、更に、この両者の間に生れたものと考えられる則長が、天元五年の生れであるので、清少納言の生れも大体推定される。もし、則光より一歳若く康保三年の生れとすると、父元輔の五十九歳の折の出生となり、また十七歳で則長の母となったという計算になる。
〔兄 弟〕 清少納言は、父元輔の晩年の子供であるらしいので、その兄弟の多くは、兄および姉であったであろう。今日までに知られているのは、森洽蔵氏発見の唯@致信、A戒秀、関根博士の提唱にかかるB藤原理能に嫁した姉、筆者(岸上)の推定したC雅楽頭為成、岩清水尚氏の説D宗高などである。致信は大宰少監をつとめ、藤原保昌の郎等でもあり、長和六年(一〇一七)三月八日殺害された。戒秀は、花山院殿土法師として、華山院歌合に名をとどめ、勅撰集にも、拾遺、詞花、続後撰に入集している。長和四年閏六月十二日入寂。理能の妻となった姉は、尊卑分脈によると、少くも為善、為季、為祐など男子三名の母となっている。為成は、寛弘・治安年間雅楽頭として現職であり、なお岩清水尚氏発見によると、万寿二年九月十二日齢八旬をもって歿した。宗高の兄弟説は、まだ推定で確実という所まで来ていない。
〔結 婚〕 父元輔が初の地方長官づとめを終えて、周防から帰京した天元元年ごろは、清少納言はまだ前の推定によるとじ十二歳であった・それゆえ、その後すこしして、結婚適齢期に達したと思われる。明治年代もはじめには、松平静氏、武藤元信氏、坂元先生など、正式に結婚はしなかったように考えられていたが、森洽蔵氏により、藤原棟世が指摘され、娘として小馬命婦が説かれた。のち、桜井博士により藤原理能 関根博士により藤原実方 塩田博士により橘則光が説かれた。これらの諸説のうち、理能説は関根博士によって否定せられ、その説に従うべきであり、また実方説は、正式の結婚とは考えない方がよかろう。行成と清少納言との関係の如く処理すべきであろう。棟世と則光との両人とは結婚関係と考えてよいものと思う。そしてその両者の前後関係は、則光を前、棟世を後と考えてよいのではあるまいか。橘則光は、大納言好古の孫に当り、父は氏長者である敏政である。母は花山院の御乳母の右近尼である。橘氏であるので学問に深い関係をもつ家柄でありながら、則光はあまり香しくなかったようである。長男であって氏長者になっておらぬところを見るとなにか欠点があったのであろう。しかし金葉集別離に歌が一首人り、とにかく勅撰集の作者にはなっている。その外、続詞花集哀傷に一首残されている。則光の子供の則長は、清少納言が生んだと考えられるが、この則長には、後拾遺集に三首、新続古今集に一首計四首、続詞花集に一首の歌が見られる。
藤原棟世は、長徳年間摂津守であり、尊卑分脈巻三の注記に、「蔵、右中弁」「正四下、筑前、山城、摂津等守」とあり、則光に比べると学問のある経歴のようである。しかし棟世についての資料は多くないのでくわしくはわからない。和歌の作品はないようである。
〔宮 仕〕 清少納言が家庭の女性、それも、橘則光の妻の地位から去って、宮仕に出るにいたった事情については、結婚生活の失敗というものが考えられる。恐らく則光との家庭生活に破綻をきたしてのことであろう。その原因は、両人の性格の相違、父元輔の死去、結婚制度の矛盾などいろいろの条件があったであろう。宮仕所は、時の関白道隆の長女で一条天皇の中宮定子のところであった。宮仕に出て、「清少納言」という称呼をえたのであって、この宮廷称呼の「少納言」は恐らく彼女の身近かな者にその根拠があると思われるがまだ見出されない。少納言という称呼から彼女の地位が「下ろうながら中ろふかけた」ものと考えられ、それらは、積善寺供養、清涼殿の丑寅のすみなどに観察されるところと合致する。
宮仕出仕年時については、多くの説がある。それをまとめると次の如くである。
正暦元年又は二年冬説
金手元臣氏、枕草子評釈。栗原武一郎氏、枕草子全釈。山岸徳平先生、校註枕草子。
正暦二年説
春説 市川寛氏、国語国文
冬説 前田本枕草子勘物。梅沢和軒氏、清少納言と紫式部。小林栄子氏、口訳新註枕草紙。
正暦三年説
三年説 永井一孝氏、枕草紙新釈。島野幸次氏、国語国文学講座、枕草子。
三年頃説 五十嵐博士、早大文学講義、枕の草子評釈。小沢正夫氏、国語と国文学
三年二月説 有馬賢頼氏、国語国文の研究
三年八月廿八日以降説 武藤元信氏、東洋学芸雑誌
正暦四年説
初春説 田中重太郎氏、歴史と国文学
冬説 坂元雪島先生、東亜之光 岸上慎二、国学
その他
正暦五年二月いまだ新参であったとの説
北村季吟、枕草子春曙抄。荻野由之氏、標註枕草子。
正暦三年から五年までの冬説
窪田空穂氏、枕草紙評釈。
定子中宮の入内は、正暦元年正月の事であったので、入内当時の宮仕というのが、もっとも常識的な考え方であるが、彼女の初宮仕を記述した枕草子の記事〔一八四〕を参考すると、清少納言の宮仕はそれより遅いものと考えられる。正暦四年が今日としては有力なのではあるまいか。「鳥は」の段に「十年ばかりさぶらひて」とあり、宮仕十年ということが大体の期間のように思われ、中宮定子への奉仕も長保二年十二月皇后崩御をもって一往終ったのではあるまいか。御遺児も、一男二女おありであるので、そのおつきの侍女として残ったとも考えられるが、資料がない。恐らく、棟世との間に結ばれた関係もあり、宮廷を退出したのではあるまいか。それは、長保三年の或日と考えたい。
〔晩 年〕 皇后定子にとり残された清少納言は、すでに晩年といってよい。淑景舎宮仕、御匣殿宮仕、上東門院宮仕、などの説があるが、恐らく一定の宮仕はしなかったのではあるまいか。長保三年は、さきの推定年齢によると、三十六歳である。宮廷を退出した少納言については不明であるが、棟世との関係が推定せられる。紫式部日記に「そのあだになりぬる人のはていかでかはよく侍らん」といわれて、その末路はすでに暗かったようで、地方に下向したという伝説を多く残している。無名草子などがその古いところである。地方下向は、現存の三巻本の本文の末尾は、「まことにや、「やがては下る」と、いひたる人に」という返歌をもつ章段が最末であり、この三巻本の組織は、「春は曙」にはじまり「地方下向」に終るという、彼女の終焉を暗示するような構成になっていて、伊勢物語の一代記の如き、一往のしめくくりの如きものを示している。しかし、これは一往のしめくくりであって、かえって清少納言落魄後の他人の作意を感じさせるものがありはしまいか。古事談、臣節第二の「駿馬ノ骨ヲバ不買ヤアリシ」という説話も、もっともありそうではあるが、伝説的のものであろう。晩年の地方下向、落魄は事実であったであろうが、その終焉の地は、都においてであったであろう。公任卿集の「清少納言が月輪にかへりすむころ」という詞書、又は、赤染衛門集に「元輔が昔すみける家のかたはらに清少納言すみしころ」云々、玉葉集雑五「月をみて 月みれば老いぬる身こそ悲しけれ遂には山のはにや隠れむ」、続千載集、雑中「老の後籠りゐて侍りけるを人の尋ねてまうできたりければ とふ人にありとはえこそいひ出でね我やは我と驚かれつゝ」などをみると、老後における都の近くの生活がみられるように思われ、一度び地方に下っても、歿した時は「月の輪」であったのではなかろうか。なお他の兄弟が、長和から万寿にかけて死んでいるので、もっとも年若の清少納言も、それぐらいに歿したと考えてよかろう。
清少納言は、中古三十六人歌仙伝にえらばれているが、和歌として知られるものは、勅撰入集歌十四首、枕草子の中に見られる彼女の作歌十六首と連歌四句、清少納言家集の中の彼女の作と思われるもの三十五首ばかりで、各々の重複を除去すると五十首ばかりになる。歌会、歌合への出席の記録はなく、すぐれた歌人とはいえないが、やはり父元輔譲りの歌才をもち、口軽くよんで、それでいて気のきいた作風である。
3. 成立と組織
枕草子の成立と、その組織についての間には関連があるので、一つにして述べたい。三巻本及び伝能因所持本の両系統本文には、各々その終りに、いわゆる今日の跋文とでもいうべき性質の文章を二つもっている。その一は「この草子」云々という、この作品、即ち枕草子の執筆されるに至る事情なり、作者の作品についての気構えを語っているものであり、その二は、「左中将」云々という、作品の流布に至る事情が語られている。この二つの記事があるので、成立についての問題は明瞭なようなものであるが、しかしこの跋文の記事を、そのまま認めうるかどうかということに問題がある。山岸徳平先生、森吉左衛門氏は、その二つめの後者の記事は、作者以外の書加えであると考えられ、池田博士は作者の筆になるものと認定されている。しかしこの記事は、伝来の間に書加えられたものとしても、その記載の事実の真偽が問題なのであって、その事実としてはさもありそうな事である。山岸先生も事実は認めていらっしゃる。その事実を認めるとすると、成立についての緒が出てくる。既に三巻本の勘物に―耄及愚翁の注とすると安貞二年時に「伊勢権守長徳元二年事也 此草子長保元二年事多書之 若書加歟」と注意されて、この問題が扱われている。経房の伊勢権守時代に流布しはじめたとすると、それは、長徳元二年の事である。しかし現存の枕草子には、長保元二年の記事も多く、これらの長徳元二年以後のものは書加えであろうかというのである。春曙抄には「后宮かくれさせ給ひてのち、清少おとろへての世に、昔恋しき心をのべて書加られし事ありと見えたり。此ゆゑに此草紙に詳略の異本様々ありとしるべし」と記し、この書加えの事実を、諸系統本文の多様性と結んで考えようとしている。金子元臣氏は「枕草子評釈」において「長徳一二年の頃に、経房が持出したのは、その第一稿だらう。以後長保二年までは勿論、寛弘の中頃までも、書継いだらしい形迹が多分にあるから、実は第二稿第三稿といふやうに、人に借り出されたその都度、多少づつ変つたものが、世に流布されたのではあるまいか。今日現存の各異本は、相違の点があまりに繁多で、全く乱麻のやうな感がある。一本に纏めては、整理の手が殆んど著けにくい(下略)」と、春曙抄と同じように述べられている。これらの中に、もっとも注目に値するものは池田博士の説である。年代順にあげると、1岩波講座、日本文学「枕草子の形態に関する一考察」2国語「枕草子の原形とその成立年代」3アテネ文庫、枕草子 4全講枕草子とその見解を進めてこられた。そのうち代表的のものとして2と4とを掲げよう。2の結論の部に次の如くある。
一、清少納言枕草子の原形は、形式としては類纂的で内容としては歌枕の解説に類するものであった。
一、原本は長徳二年六月八日以後七月十一日までの約一ヶ月間に清少納言によつて創作執筆された。
一、原本となつた草子はかつて内大臣藤原伊周が中宮定子に上つた草子であり、その執筆は作者の里宅に於てなされた。
一、随筆的、日記的部分はこの原形木とは後れて別に成立し、おそくとも長保三年八月までの間にすべて集成され、巻末に作者による跋文が附せられた。
一、集成された枕草子はその後散乱し、多くの人々による再編輯が企てられたが、幾多の異本はかかる事情によつて発生した。
一、歌枕的な記事にはもとより、打聞的な記事にも、或は作者自身による、或は後人による後日の増補加筆修正等がなされたであらう4の全講枕草子解説七には次の如くある。
一、分類、回想、随筆に三大別される各部分は、それぞれ成立の時期と事情を異にし、三回にわたって執筆されたであろう。
二、以上三種のものが何かの折にあらためて統一され、作者みずから増補加筆したであろう。(これが現存枕草子の最初の形態―原型―である)
三この原型は、後年何かの事情により一旦解体され、その後、原型とはほとんど関係なく再編集されたであろう。(これが三巻本・能因本・堺本・前田本等のそれぞれもとをなす本である)(中略)
こうして枕草子第一回の成立は、長徳二年夏から秋の間と考えられ、内容はさきに示した分類の諸段であったと信ぜられる。経房に借り出されたことから次第に宮廷の内外に流布したと考えて誤りはないであろう。
次に枕草子が執筆されるに可能な時期の一つとして、定子崩御の後の数年間が考えられよう。宮仕えを去った作者が、生涯のもっとも幸福だった一時期を回想し、中宮と主家とに対する思い出を書き綴ったと考えるのは、きわめて自然であろう。(中略)
なおこの回想の記ともいうべき部分は、私見では、定子のわすれがたみである一品宮修子内親王に贈られ、そこから一般に流布したものではないかと思われる。(中略)
枕草子執筆の最後の時期として、著者は作者の老後すなわち晩年を考えている。自然あるいは人生に取材した多くのすぐれた随筆は、若いころの分類意識による諸段と同時に、あるいは交互に執筆されたとは到底考えられない。一々の段には明らかに老後の執筆として指摘し得る事項もすくなくない。
なおこの時期には、随筆の執筆と併行して、過去に書いた部分、特に分類の諸段への加筆修正が施されたと考えられ、分類の部分や回想の部分がこれに併されたのも、この頃であったと思われる。そして、その伝来には、作者が若いころ橘則光との間にもうけた子の則長や、老夫棟世との間に生れた小馬命婦、その知友範永などの力があずかっていたと推定される。(下略)
この池田博士のお説は、時間とともにやや変ってはきているが、清少納言が類纂的に執筆していたであろうという態度には変りがない。枕草子を多年御研究の結論である。源氏物語の構想論における、紫上系、玉鬘系の成立の過程にも似た内容分析であって、確かに作品そのものには、三分類が認められ、その各々がもつゆえに、三つのものは別時に執筆されたという全講の説には、また別の方面からの幾多の証明が残されていはしまいか。しかし精密な推論として甚だ特異なお説である。今日、この類纂形態をもつものが枕草子の原形であろうと考える池田博士の説に対して、春曙抄や、金子氏が跋文に注を施したような、経過を辿って成立し、今日の、三巻本、伝能因本の如き雑纂形態をもつものが原形であろうと考える立場とに分れるわけであるが、この後者の説は、村岡典嗣氏、楠道隆氏、田中重太郎氏などによって支持されている。枕草子の諸本の組織には、類纂形熊本と、雑纂形態本との区別があり、その論も強力にわかれているという現状を記して筆をとどめたい。
4. 諸伝本と本書の底本
武藤元信氏により、明治年間、二十本の諸本蒐集が行われ、その「考異」が東洋学芸雑誌に順次掲載せられ、その本文が多岐に亘っていると世人に認識されたが、その完全な収穫は、昭和に至っての池田博士の諸本研究においてであるといってよいであろう。武藤氏も、二十本の間に、おのずから、親疎の関係は洞察しておられたような排列順に諸本を並べておられるが、まだ判然とは系統にはふれておられない。池田博士の研究は、1昭和三年一月号の国語と国文学誌上の「清少納言枕草子研究」、2昭和七年七月、岩波講座、日本文学の「枕草子の形態に関する一考察」と進められ、二種四系統に分ける、現在の系統論の大綱が確立された。その後、楠道隆氏により四系統のうちの一つ前田本は、伝能因所持本と、堺本との中間本であると証明せられた。それゆえ、系統としては、三系統であるというべきが至当であろう。池田博士の説に従って系統を表示し、各系統に属する諸伝本の概説としたい。
三巻本(安貞二年奥書本・耄及愚翁本・古本) 多く三冊 安貞二年耄及愚翁の手を経た本を、岡西惟中は「枕草紙旁註」の「凡例」において、「三巻之本少而見者亦少」と称しており、これによって池田博士が、「三巻本」と云いはじめられた。武藤氏は「古本」と云われ、山岸先生は「耄及愚翁本」とも「安貞本」とも称されている。この系統の諸本は現在はおおむね三巻になっているが、元来は上、下「二巻」であり、この土下を各々二分冊して四冊に分たれるべきものであったが上巻を一冊として下巻を二冊として合計三冊又は上巻の上半部を失して、上巻の下冊を上巻一冊とし、下巻を二冊として合計三冊となっている。すると今日の三巻に分冊されているのは、ともかく異常な分巻の結果である。それゆえ、安貞二年奥書本又は耄及愚翁本と称した方が穏やかである。この本には次の奥書がある。今、陽明文庫甲本をもって示す。
本云
A 往事所持之荒本紛失年久更借出一両之本令書之依無」證本不散不審但管見之所及
勘合舊記等注付時代年月等」是亦謬案歟
安貞二年三月 耄及愚翁在判
B 古哥本文等雖尋勘時代久隔和哥等多以不尋得纔見事」等在別紙
C 自文安四年冬比仰面々令書寫之同五年中夏事終」校合再移朱点了
秀隆兵衛督大徳書之
D 文明乙未之仲夏廣橋亜槐送 實相院」准后本下之本末兩冊見示日余書寫所」希也厳命
弗獲點馳禿毫彼舊本不」及切句此新寫讀而欲容易故比校之次」加朱点畢
正二位行権大納言藤原朝臣教秀
その後の、陽明系の伝写本、例えば富岡家旧蔵本には
E 右本切句勘文為證本之由見于奥書矣家傅之」本紛失仍老眼染禿筆令書寫貽後昆者乎
正三位清原朝(「臣」脱力)枝賢法名道白
申請楊明御本寫之
天正十一年二月八日令校合畢
とあり、また、やや頽れたこの類の奥書をもっものもある。以上は一類と称されてきた伝本における奥書であり、これに対し、二類と称されてぃる伝本には、AとDとの二つの部分の記載があるのみである。この奥書で考えられるところは、Aにおいては、@安貞二年 耄及愚翁が借出した「一両之本」によって書写したものであること A「一両之本」とあるので一本ではなかったらしく、安貞二年に対校書写せられたらしいこと B安貞二年すでに「証本」というべきものがなく「不審不散」の本文状態であったこと C従って管見により「時代年月等」を「旧記等」により注付した等の事柄であろう。
Bの部分の注記者は何人であるか、決定していない。Aの安貞二年時のものか、次のCの文安四年のものか、それともまたその中間の何人かのものか。強いてA、Cのいずれかに求めるなら、A時の耄及愚翁のものではないかと考えたい。文安の時のものが「書写」「校合」「再移朱点」とあるのみで、研究心の発揮を示した語句がないし、このCより前にBの記事を書くことは本末を逆にした形式になる。それゆえ、安貞の奥書の追加と認めた方が穏当であり、正当に近いのではあるまいか。
C部は文安四年⇒兵衛督秀隆のものでAの耄及愚翁からは二百二十年ばかり時代が隔っている。この「再移朱点」というのが疑問である。池田博士は文安の秀隆書写本の原本にすでに朱点があったように考えておられるが、そう解するとDの教秀の朱点と重複して解釈にこまることになる。しかし教秀には支障が生じても、このところの文章の上からはそう解すべきであろう。
D部は文明七年⇒教秀の奥書であるが、この部分には、難問題が横たわっている。先ず読み方に、春曙抄、群書一覧などの見解と、枕双紙抄の見解の対立があり、池田博士、田中氏などの意見も出ており、それにつき勧修寺家から教秀自筆ではないかといわれる古写本の発見もあり、その解釈に或程度の解決をえてきた。広橋亜槐が、実相院准后に送る本の下の本来両冊を、書写してくれと依頼してきたので、その命に従って写したというのであろうが、教秀は「読而欲容易」といい、朱点を加えたとある。広橋亜槐から送って来た原本には、「切句」ることを示す朱点がなかったようである。するとCの文安の秀隆も、Dの文明の教秀も、朱点をうったことになり、もっとも教秀は下巻の本末であり、秀隆のものを上巻と考えればよいようなものの、秀隆のものは上巻と示されておらず、上、下に亘るものであったと考えるのが普通であろうから、三巻本に朱点は幾人もの複数の人によって打たれたことになるかもしれない。この関係は、秀隆書写本の系統の純粋なものが発見せられず未解決事項である。
さて現存の三巻本系統の諸本は、一類と二類とに分けられているが、その一類と称されている系統のものは、他系統本との混入のない、より純粋性を保つものであるという見透しのもとにあり、二類と称されるものは、他系統本、とくに堺本の要素をもって校訂を加えられたところが見うけられるように考えられる。三巻本の現存本には次のものが知られている。
一類本といわれるもの 略号 弥富破摩雄旧蔵、現田中重太郎氏蔵本 三冊 弥
近衛家、陽明文庫蔵 甲本 三冊 陽 刈谷図書館蔵本 二冊 刈
近衛家、陽明文庫蔵 乙本 三冊 明 内閣文庫蔵塙保己一旧蔵本 三冊 内
宮内庁書陵部蔵本 三冊 宮 静嘉堂文庫蔵、旧松井簡治博士蔵本 三冊 静
高松宮家蔵本 三冊 高 伊達家旧蔵、現吉田幸一氏蔵本 三冊 伊
富岡家旧蔵、現戸川浜男氏蔵本 三冊 富 京都大学文学部研究室蔵本 一冊 京
勧修寺家蔵、伝教秀筆本 三冊 勧 岸上蔵本 一冊 岸
岩瀬文庫蔵、柳原紀光筆本 三冊 底 勧修寺家蔵、伝教秀筆本 一冊 勧
中邨秋香より武藤元信への寄贈本 三冊 中 岩瀬文庫蔵、柳原紀光筆本 一冊 底
二類本といわれるもの 中邨秋香より武藤元信への寄贈本 一冊 中
前田家、尊経閣蔵本 五冊 田 竜谷大学図書館本 一冊 竜
古梓堂蔵本 三冊 古
これらの三巻本には、その巻末に、源経房、橘則季両人の経歴の注記をもっており、跋文二の記事と併せ考えて、その伝来に当って、この両人が一役買っているのではなかろうかと考えられている。経房は枕草子中にあらわれて清少納言ととくに親しい関係にある人物であり、則季は、同じく則光の孫で、父は則長である。則長を清少納言の子供と考えることが正しければ、則季は清少納言の孫に当ることになる。三巻本は橘則光の子孫の手があずかっていると考えてよさそうである。
伝能因所持本 二冊 昭和三年一月号の国語と国文学誌上の池田博士の諸本研究には、まだ三条西家蔵本の、この系統本の発見がなく、従って木活字本をはじめとする江戸期の流布本の祖本がわからず、系統論の完成をみなかったが、その後三条西家本がまず発見せられて、岩波講座の日本文学「枕草子の形態に関する一考察」において系統論が組み立てられた。その後、高野辰之博士蔵の下巻、吉田幸一氏蔵、旧富岡家蔵本が発見せられるに至った。この系統本は、奥に枕草子は人ことに持たれとも誠によき本は世にありかたき物也 これもさまてはなけれと能因か本ときけはむけにはあらしとおもひて書うつしてさふらふそ 草子からも手からもわろけれとこれはいたく人なとにかさてをかれさふらふへし なへておほかる中になのめなれと猶この本もいと心よくもおほえさふらはす さきの一条院の一品の宮の本とて見しこそめてたかりしかと本に見えたり これかきたる清少納言はあまりいうにてなみなみなる人のまことしくうちたのみしつへきなとをはかたらはす えんになまめきたる事をのみおもひて過にけり 宮にも御世おとろへにける後にはつねにもさふらはす さるほとにうせ給ひにけれはそれをうき事におもひてまたことかたさまに身をおもひたつ事もなくて過しけるに さるへくしたしくたのむへき人もやうやううせはてゝ 子なともすへてもたさりける儘にせんかたもなくて年老にけれはさまかへてめのとこのゆかりありて阿波国に行てあやしきかやゝにすみける つゝりといふ物をほうしにしてあをなといふ物ほしにとに出てかへるとて昔のなをしすかたこそおもひ出らるれといひけんこそ猶ふるき心のゝこれりけるにやとあはれにおほゆれ されは人のをはりのおもふやうなる事わかくていみしきにもよらさりけるとこそおほゆれ
とある。伝来の古伝に「能因所持本」とあるところからこの称がある。跋文の集成、奥書の一部分に相違が見られるところから、三条西家蔵本の系統を一類 高野博士本、富岡本を二類 と称している。なお木活字本以下の流布本は二類により多く拠っているようである。
この伝能因所持本が、伝称の如く真実、能因法師の手をへたものであると、橘氏の出身であって、即ち三巻本伝来に関係のある橘則光とは同族であり、そこになにか近い両本の関係が考えられる。しかし、この両者の今日の近似点は、組織において雑纂的であるという点だけであって、本文には相当の距離がある。少くとも類聚章段においてはその次元を異にする。概して三巻本は項目が少いのがその性格で、例えばA的であり、能因本はAの次にB的のものの増補が行われている。作者みずからの増補とすると、この系統が最終的な決定的の本文をもつことになる。しかし、もしこれが他人の附加であると、Aの本文である三巻本が本文評価において優位に立つべきである。今日この結論はえられていない。しかし今日の本文状況としては、三巻本の伝来の方がより研究的に行われて来ているために損傷の度合が少く、やや優位にあると考えてよいようである。
堺本 二冊 季吟が、春曙抄に「又一本上下二冊堺本とて、宮内卿漬原氏の奥書あり。発端より一紙がほどは、よのつねの本に大かた似て、其次枕詞の次第など大きに異也。又、清少納言の歌よみし物語一段も書きつらねず。此本も先達の用ひ給へる由の奥書など見えたれど」云々といい、この名称が踏襲されている。この系統中に、宸翰本ともいわれる、群書類従本などの類をも正式に含めることにしたのは池田博士によってである。高野辰之博士旧蔵本の奥書を示すと次の通りである。
此枕草子は深養父孫、元輔の御娘にて上東門院にこうせしとそ 清少納言局と號して紫式部と名をおなしく誉たかく人の口にあることとも世の行によしあるわさをしるしあつめられたる也 いやしくもゆかりのゆへをもつて先祖の遺文人ありてたつねはいかゝはこたへ侍らんかしと泉の堺に世にそむきたるわさしていとまのあるを幸として好事の佳士道巴といふ翁の心の月をすまし身のさとり明なるか持なれたる本を しはしかりもちゐて書寫しむる所なり 古本一とせ祖父にておはせし後浄居院殿 能州へ下しめたまひし時 太守匠佐とくゐん所望によりてつかはされしよし仰られしこそまのあたり耳にあるやうに覚えて くり返みるに女房のもてあそふへきことはり 男のしらてかなはさるわさなるへし あなかしこ よみおほえすはあるへからす
時に元亀元年十一月日 宮内卿清原朝臣
この系統本に属するものは、高野博士旧蔵本のほか、旧台北大学蔵本、山井我足軒本、鈴鹿三七氏蔵本、紅梅文庫蔵本、三時知恩寺蔵本、無窮会文庫蔵本、伝後光厳院宸翰本(群書類従本)、京都大学蔵本、宮内庁書陵部蔵本、前田家蔵「四季物訪歟之由の書」、静嘉堂文庫蔵本、御巫清勇氏旧蔵本等が知られている。堺本の一類(甲類)と称せられるものは、「春は曙」から「みたけにまうづる道のなかは」に至るまでの内容をもち、二類(乙類)といわれる所謂宸翰本の系統は、「春は曙」から「きよげなるわらはべの」までで、堺本の部分の前半約三分の二ほどをもつことになる。
この堺本の性質として、楠氏をはじめ、田中氏も、筆者も、後人の改編本という見透しをもっているが、池田博士をはじめ、橋口祀長氏などは、より原形に近いものをもつとお考えのようで、そこから更に原形堺本を想定し、追求しておられる。この系統は一類に属するものにしても経験談を殆ど持っておらず、その点について、楠氏以下は、省略編成本と考え、池田博士らは、脱落説で、かつては存在して、完本であったとお考えのようである。この完本堺本、或は原形堺本の存在を予想しようとする池田博士らのお考は、一つの説として今後が注目される。類聚章段でこの系統本の性格を見ると、三巻本のA、伝能因所持本などの増補文章Bの両方をもち、即ち基盤とするところは、Bの増補時に立ちつつ、抜粋する立揚をとっている。それゆえ次元としては伝能因本に近い。
前田本 四冊 武藤元信氏は「別本」と称しておられたが、昭和二年尊経閣から複製せられ、その当初は類纂説の有力根拠に考えられたが、その性格が、楠道隆氏によって、国語国文昭和九年六、七月号に証明せられて、その本文系統としては騒がれたほど価値高いものとは考えられないようになった。しかし書写時としては、現存枕草子諸伝本中、もっとも古いので、本文校勘の部分的の資料としては有益なものがある。この本は孤本であり、一冊は「春は曙」から「畳は」までの「何々は」型のもの、一冊は「めでたきもの」から「めでたきものの人の名につきていふかひなくきこゆる」までの「何々なるもの」型のもの、一冊は「正月一日は」から「よくたきしめたる薫物の」までの自然人事に関する随感随想録のもの、一冊は「小白河といふ所は」から「中納言殿まゐらせ給て」までの作者の経験談の内容のものである。堺本的の章段内容はほぼ所有し、雑纂系のものがもつ経験談の記事のうち、約半分くらいをもっており、従って、あと一冊かかる内容の文章があったのではなかろうかと言われている。奥書類はもっていない。筆者は二条為氏とも、民部卿局とも称されている。組織の点からは堺本を更に徹底的に整えた形式になっている。
本書の底本 岩瀬文庫蔵本、三冊。縦九寸一分、横六寸八分、下冊はやや小さく縦八寸九分五厘、横六寸六分五厘。袋綴。紙表紙。表紙に直接「枕草紙」と左肩に墨書し、右肩に「極秘」と小書し、題字の下に「上(下)」と小書する。上巻は一丁オ「春はあけほの」から九五丁ウ「なぬかの日のわかな」「一本うしかひはおほきにてのつきに」に及び、墨付九五丁であり、中巻は、一丁オ「二月官のつかさに」から五七丁ウ「月のいとあかきに」に及び、五七丁、下巻は、一丁オ「おほきにてよき物」から五九丁ウ三巻本の奥書および柳原紀光の自筆奥書に及び、五九丁である。この上、中、下三巻とも「柳原庫」という小形の白字の朱印、「日野柳原秘府修竹記之印」という大形の朱印、それに「岩瀬文庫」という朱印の三箇の印が押捺してある。奥書としては、前記のA、B、C、Dをもち、そのDの次に、下巻五九オに、
右枕草紙 借請教秀卿自筆
古本令書写之尤可秘蔵」オ
天明二年九月上旬 正二位藤(花押)
とある。右によると柳原紀光が勧修寺教秀卿の自筆本をもって、天明二年九月上旬書写した由である。なお、このほかに日附注記として上巻末に朱筆をもって「天明二七一枚合」とあり、これをもってみると、書写しはじめたのは、少くとも七月一日より早くである筈で、恐らく五月か六月にははじめられ、上巻の朱筆校合の完了したのが、七月一日であったらしい。こういう朱筆注記はここのみで、中巻の終りにも、下巻の終りにももうない。しかし、九月上句書写を終ると記すこの紀光本に、その途中の「七月一日」の「校合」という状況注記があり、一往その書写の進行状況が知られる。この紀光が書写した原本という「教秀自筆古写本」は、柳原家は、広橋家とともに、日野家から分れており、広橋、柳原はしたがって同系の家柄であるので、Dの奥書にみられる広橋亜槐時代の、広橋家所蔵本から書写せられはしまいかという筋道も考えられるが、既に、田中氏も校本枕冊子に述べておられるように、現在勧修寺家に所蔵されている古写本を指すものと判断すべきであろう。
この写本の筆跡は二手あり、巻頭二葉ばかりと、巻末の「右枕草紙」云々とは紀光自筆であり、その他は何人かに書かしめたようである。この写本は、現存の勧修寺家本を忠実に書写したばかりでなく、他本の校合を加えてある。例えば次の頁の表の例をみると、
「或本」又は「イ」として示されている朱注は、大体伝能因所持本系統と思われる。ただ5の例のみは、現存諸本のうち三巻本の、内閣文庫本のみの本文で疑問もある。しかしそれらの他本によって注をする時には、「或本」又は「イ」と注記して、原本の書写の誤りを訂正した朱記とは異るものであることを注意して行っている。
5.
文学史的位置及び意義
枕草子の中には、宇多天皇や醍醐天皇についての言及がないが、源氏物語の中には、桐壷の巻においても、宇多の帝、亭子院という詞が盛に使用されている。また山田孝雄先生の「源氏物語の音楽」には、源氏物語に見られる音楽は延喜天暦時代の実状が描かれているというお説である。これは物語の時代設定を延喜天暦時代に置こうとしたためであろう。これに対して枕草子には「村上の前帝の御時」とか、「清涼殿の丑寅のすみ」の段中には「村上の御時に、宣耀殿の女御と聞えけるは」云々とあり、村上の御時が話題にのぼっている。これは、清少納言の宮廷生活が、宇多、醍醐より村上に近い―現にその時代に生れた人々であり、従って身近であったのでもあろうが、延喜と天暦とでは、その文化なり、文学にも変化が生じておるであろうから、一条天皇時代は、少くとも、中の関白道隆を中心とする中宮定子の後宮においては、村上的のものが濃かったのではなかろうか。延喜時代の古今集風なものより、天暦時代の後撰集風な文学傾向が強くうけつがれていたといってよいのではあるまいか。
村上天皇時代の文学というと先ず後撰集であるが、各種の歌語りの中でも、例えば、十訓抄巻七に収められている次の文章をみると、
成明親王の位につかせ給ひたりけるに、女御あまたさぶらはせ給ひける中に、広幡の御息所は、ことに御心ばせあるさまに、帝もおぼしめしたり、あふさかもはては行ききのせきもゐず尋ねてとひこきなばかへさじ
といふ歌を、同じ様にかゝせ給ひて、方々に奉らる。御返事をさまざまに聞えさせ給ひける中に、ひろはたは、たき物をぞまゐらせ給ひたりける、いみじかりけり。こと御方には、くつかぶりの歌ども、御覧じわかざりけるにや。此の御息所、御こゝろおきて賢くおはしける故に、彼の帝の御とき、梨壷の五人に仰せて、萬葉集をやはらげられしも、この御すゝめとぞ。順筆をとれりけるとあり、この時代の後宮生活の一端が察せられ、これらの和歌を中心とした趣味的な催しは歌会、歌合はもとよりのこと、最も通俗的に興趣を追って生活の興趣化が行われていたであろう。この折句、沓冠歌或は物名歌などについては、山岸先生の国語誌上に詳細に説明せられている。古今時代を花実兼ね備えた時代とすれば、村上の後撰時代の歌壇は「花」に流れていたのではなかろうか。六歌仙時代を併せ考えると、古今時代が貫之という強力な個人により、統一された「花実」の時代であり、六歌仙時代、後撰時代は、気脈を通じて「花」の時代であったのではなかろうか。そう考えることが許されるとすると文学の血脈としては、一条帝の、中の関白・中宮定子を中心とする後宮は、この系流を多分に汲むものといえないであろうか。これは後宮の中心をなす道隆、その人の資質に多分に支配されたであろうとも云いかえられよう。大鏡や栄花物語に見られる道隆は、枕草子の中にみられる道隆とひとしく、愛酒家であり、猿楽言の名手でもあったようである。こういう後宮の中に生れた枕草子が、をかしみのかった、明朗な文学内容をもった作品になり、同じ一条帝としても、道長を中心とする彰子の後宮では、その中核の道長を反映して多分に、宇多、醍醐的の「実」の文学の血脈を引くものとなっているのではあるまいか。時を等しくする後宮の文学といっても、そこに中心の座につく人如何によって相違が生じたと見たい。なお、作者清少納言の、元輔などよりうけた資質においても、中の関白系のものであったこともあずかっていよう。
枕草子は、成立と組織の条でも述べたように、類聚段に中心があると思われるが、作品の誕生に至る経過としては、女房日記の一種であって、歌合の日記などとその源を一にするであろう。しかし、その内容の発展は日並の記ではなく、跋文の一にいう如く、随筆的に進み、今日、文学の系列としては随筆に分類するを至当としよう。その点、随筆文学の最初の作品として史的位置は重く、その後に方丈記、徒然草などがつらなってゆくことになる。徒然草が、枕草子の系列をつぐものであることは、既に徹書記物語に「つれつれ草は、清少納言が枕草子のやうなり」と指摘されている。枕草子の後代文学への関連は、源氏物語にその影響が早くも見られるといわれ、無名草子にも枕草子に言及した点がある。しかしこの無名草子からは枕草子の内容の如何なる部分にとくに注意をむけているかということはわからない。徒然草には、十九段の「折節の移りかはるこそ」の、野分の又の日の記述に、源氏物語と、枕草子の先行作品のあることを述べて、随想段を引用している。今川了俊の、了俊弁要抄をみると「三代集の歌の外にも常に可見抄物事」として「卅六人家集等、伊勢物語、清少納言枕草子、源氏物語等なり。此等は哥心の必付ものなり」とあり、作歌の必読書にかぞえ、斯波義将の竹馬抄には「一尋常しき人はかならず光源氏の物がたり、清少納言が枕草子などを、目をとゞめていくかへりも覚え侍べきなり。なによりも人のふるまひ、心のよしあしのたゞずまひを教へたるものなり」と教養書としてうけとっている。
類聚段の面白さは、多く即興的なものであって、読者の魂の底を動かすというものではなく、軽い笑いの文学であるが、それはそれなりに追従をゆるさぬ異色の作品となり、それに較べると、自然の鑑賞、人生に対する感想記には、彼女の正常な神経が、十分に発揮され、後世の文学に影響するところ大であったと思われる。なお経験を記述した章段は、自己の吹き語り的な点も大いにあるが、中の関白家の、とくに中宮定子の讃美であり、多分に主家の宣伝的意味もあり、この種のものの臭味を幾分残しているというべきで、同時代の紫式部からその日記の中で「清少納言こそしたり顔にいみじう侍りける人」と云われる源ともなったであろう。とにかく、一条天皇時代の後宮生活を記録したものとして、作り物語、源氏物語とともに価値高いものである。
6.
研究の経過と参考文献
研究的に枕草子に対するようになった文献としては、鎌倉時代、安貞二年に耄及愚翁が本文校勘をしたその次手に、所謂「勘物」を注記したことがはじめであろう。すると本文書写による、本文研究という研究部門が先ず必要になり、その点からはじめられたといってよいであろう。今日残されている三巻本の現状からみると、その「勘物」は「人物」「事件」の注記が主であって、それに、古歌の引用であることを示す朱の合点符号、文章の新しい書き出しを示す、朱の合点、又は句読点に類する朱点などが施されている。これらは、理解のための手段が施されているというべきであろう。前田本には、鎌倉時代の本文研究、および勘注が見られ、伝能因所持本には、内容の章段を目録にとり、上下各冊に附載されているので、内容研究が行われた記録になる。こういう研究が鎌倉から室町までの研究であるが、これらのほか、今日に伝わらぬものとして「本朝書籍目録」「花園院記」に「季経卿註十巻」「枕草紙抄」に「頼元抄 四巻」があったと記されている。
江戸時代に入って、木活字版の出版として十行、十二行、十三行が慶長、元和、寛永の間にあり、慶安二年に木版本が出版されたが、注釈書としては、加藤盤斎ではないかという、「清少納言枕双紙抄十五巻」が延宝二年五月先ず出版され、北村季吟の¬枕草子春曙抄十二巻」も同年に版行されたようである。ついで岡西惟中の「枕草紙旁註十一巻」が天和元年に出版され、江戸時代の三注がそろうことになる。その後、江戸の学者により研究は進められたのであるが、春曙抄が枕草子を代表するように流布し、学者も多く、この春曙抄に書入れを行った。その例として、加藤千蔭、岩崎美隆、清水浜臣、前田夏蔭、長沢伴雄などの研究が知られている。明治以後の研究としては、本文研究として、武藤元信氏、池田博士、楠道隆氏、鈴木知太郎氏、田中重太郎氏の研究があり、解釈鑑賞としては、松平静氏、金子元臣氏、関根正直博士、塩田良平博士、田中重太郎氏、五十嵐、岡両博士などの研究がある。外国語訳本は主として抄訳であるが、一九三四年仏訳の完本がアンドレ・ボーヤードにより出版されている。