12. 今内裏のひむがしをば
  本文  現代語訳
  今内裏のひむがしをば北の陣といふ。なしの木のはるかにたかきを、「いく尋あらん」などいふ。権中将、「もとよりうちきりて、定澄僧都枝扇にせばや」とのたまひしを、山階寺の別當になりてよろこび申す日、近衛づかさにてこの君のいで給へるに、たかき屐子をさへはきたれば、ゆゆしうたかし。出でぬる後に「などその枝扇をばもたせ給はぬ」といへば、「物わすれせぬ」とわらひ給ふ。   仮皇居の東を、「北の陣」と呼ぶ。なしの木がはるかに高いのを、「どれだけのたかさか?」などと言う。源成信中将は、「根元より打ち切って、定澄僧都の枝扇にしたいものだ」とおっしゃるのを、山階寺の別當になって、慶事を執り行う日、近衛つかさなので、源成信中将がまいりますには、高い下駄をお履きになっていたので、たいそう高い。定澄僧都が退出してしまった後に、私が、「どうしてその枝扇を持たせらっしゃらなかったのか。」と言えば、「物忘れなさらないようですな」と、お笑いになる。
  「定澄僧都に袿なし、すくせ君に衵なし」といひけん人こそをかしけれ。   「背の高い定澄僧都には袿も袿の用をしない、背の低いすくせ君には袙も袙の用をしない」と言いなす人こそ面白い。
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
 

1 今内裏…仮皇居。長保元年(九九九)六月十四日内裏炎上、同十六日一条大宮院行幸、翌二年十月十一日までここを仮皇居とされた。皇后は長保二年二月十一日から三月廿七日までと八月八日から同廿七日までの二回出仕された。

2 北の陣…今内裏の殿舎は本内裏にならって呼ぶ。本内裏の清涼殿では左方が北に当るので、今内裏でも左方に当る東方を北の陣と呼んだか。

3 なしの木…能因本「ならの木」。なしの木にもかなり高いものがあり、ここも否定しないでおく。

4 権中将…源成信。村上天皇皇子致平親王の男。後に道長の養子となる。長徳四年(九九八)十月右近権中将、長保三年(一〇〇一)二月出家。

5 定澄僧都…長保二年三月十七日興福寺(山階寺)別当に補し、同八月廿九日権少僧都となる。

6 枝扇…嬉遊笑覧に「えだ扇とは木葉ある枝を扇のやうに手に持つをいふにや云々」とある。

7 山階寺の別當になりてよろこび申す日…慶び申しの際は近衛の次将が新任者を導いて庭上に立ち、所定の公事を行う。

8 出でぬる後に…定澄僧都が退出してしまった後に私が。

9 定澄僧都に袿なし、すくせ君に衵なし…以下は底本に二三字下げて別行とする。上の文とは主題が異なる。一種の諺をあげて、背の高い定澄僧都には袿も袿の用をしない、背の低いすくせ君には袙も袙の用をしないの意か。すくせ君は未詳。袿と袙は長さだけがちがう。