23. 清涼殿の丑寅のすみの | |
本文 | 現代語訳 |
清涼殿の丑寅のすみの、北のへだてなる御障子は、荒海の繪、生きたる物どものおそろしげなる、手長足長などをぞかきたる、上の御局の戸をおしあけたれば、つねに目にみゆるを、にくみなどしてわらふ。 | 清涼殿の北東のすみの、北のへだてになっている衝立障子は、海の絵、すなわち生き物の怖ろし気な手長足長がなどが描いてある。弘徽殿の上の御局の戸を押し開ければ、いつも自然と目に入ってくるのを、嫌がったりして笑う。 |
勾欄のもとにあをき瓶のおほきなるをすゑて、桜のいみじうおもしろき枝の五尺ばかりなるを、いと多くさしたれば、勾欄の外まで咲きこぼれたる、ひるつかた、大納言殿、桜の直衣のすこしなよらかなるに、こきむらさきの固紋の指貫、しろき御衣ども、うへにはこき綾のいとあざやかなるをいだしてまゐり給へるに、うへのこなたにおはしませば、戸口のまへなるほそき板敷にゐ給ひて、物など申したまふ。 | 欄干のもとに、貴重な青磁の瓶を置いて、桜の素晴らしくおもしろい枝の15センチばかりを、たいそう多く挿したので、欄干の外まで咲きこぼれている、お昼頃、伊周大納言殿は、桜の平服が少ししなやかになっていて、濃い紫の固紋があしらってあるはかま姿に、白いお召し物の、上には濃い綾のたいそう鮮やかな色をお出しになって、いらっしゃるが、一条天皇が、ここにいらっしゃったので、戸口の前にある細い板敷にいらっしゃって、お話などをしていらっしゃる。 |
御簾のうちに、女房、桜の唐衣どもくつろかにぬぎたれて、藤・山吹など色々このましうて、あまた小半蔀の御簾よりもおしいでたる程、晝の御座のかたには、御膳まゐる足音たかし。警蹕など「おし」といふこゑきこゆるも、うらうらとのどかなる日のけしきなど、いみじうをかしきに、はての御盤とりたる蔵人まゐりて、御膳奏すれば、なかの戸よりわたらせ給ふ。御供に廂より、大納言殿、御送りにまゐり給ひて、ありつる花のもとにかへりゐ給へり。 | 御簾の中で、女房たちが桜襲の唐衣などをくつろいだようすで脱ぎかけ垂れるように着て、藤・山吹など色々と好ましくて、数多く小半蔀の御簾から袖口を表している頃、天皇の昼の御座敷には、御膳の用意の足音がよく響く。警護の者などが「おし」と言う声が聞こえるのも、うららかにのどかな日の様子など、たいそうおもしろいのに、しまいにはお盆を持った蔵人が参って、御膳を申し上げれば、なかの戸より運ばせになる。お供にと、廂の間より、伊周大納言殿をお送りに参上して、さっきの桜の花のもとに帰っていらっしゃった。 |
宮の御前の御几帳おしやりて、長押のもとに出でさせ給へるなど、なにとなくただめでたきを、さぶらふ人もおもふことなき心地するに、「月も日もかはりゆけどもひさにふる三室の山の」といふことを、いとゆるるかにうちいだし給へる、いとをかしう覚ゆるにぞ、げに千とせもあらまほしき御ありさまなるや。 | 中宮様の御前の仕切りのついたてを押しやって、壁際に追いやってしまわれるなど、なんともなくただ素晴らしいのを、お仕えする人々も想像ができないという心地がするのに、「月も日もかはりゆけどもひさにふる三室の山の」という句を、緩やかにうちいだしになる、たいそう面白く思えることこそ、本当に千年でもあってほしいありさまである。 |
陪膳つかうまつる人の、をのこどもなど召すほどもなくわたらせ給ひぬ。 | 給仕を務める人が、蔵人たちをお呼びするまでもなく、渡っていらっしゃった。 |
「御硯の墨すれ」と仰せらるるに、目はそらにて、ただおはしますをのみ見たてまつれば、ほとどつぎめもはなちつべし。白き色紙おしたたみて、「これに、ただいまおぼえんふるきことひとつづつ書け」と仰せらるる、外にゐたまへるに、「これはいかが」と申せば、「とう書きてまゐらせ給へ。男は言くはへさぶらふべきにもあらず」とてさしいれ給へり。御硯とりおろして、「とくとく、ただ思ひまはさで、難波津もなにも、ふとおぼえんことを」と責めさせ給ふに、などさは臆せしにか、すべて、おもてさへあかみてぞ思ひみだるるや。 | 中宮様が「御硯に墨をすりなさい」とおっしゃられるので、私の目はうつろで、ただいらっしゃるのを見て差し上げれば、ほとんど継ぎ目も継がぬままだ。白い色紙をぐいとたたんで、「これに、ただいま思い出す古歌を一つずつ書きなさい」と、おっしゃる。外にいる伊周大納言殿に、「これはどうでしょう」と申し上げると、「早く書いてしまいなされ。男は和歌を詠むべきではありませんから」と、色紙を差し入れなさる。御硯を貸し与えになって、「早く早く、あれこれ考えないで、難波津もなにも、ふと思い立つことを書きなさい」と責め立てなさるので、それは怖気づいて、すべて顔が赤みを帯びるほど思い乱れることよ。 |
春の歌、花の心など、さいふいふも、上﨟ふたつみつばかり書きて、「これに」とあるに、 | そうは言いながらも、上臈の女房が、春の歌、花の心など、2つ3つばかり書いて「これでどうでしょうか」と言うのには、 |
年ふればよはひは老いぬしかはあれど花をしみればもの思ひもなし | 年ふればよはひは老いぬしかはあれど花をしみればもの思ひもなし |
といふことを、「君をし見れば」と書きなしたる、御覧じくらべて、「ただこの心どものゆかしかりつるぞ」とおほせらるる、ついでに圓融院の御時に、「草子に歌ひとつ書け」と、殿上人におほせられければ、いみじう書きにくう、すまひ申す人々ありけるに、「さらにただ、手のあしさよさ、歌のをりにあはざらんも知らじ」とおほせらるれば、わびてみな書きける中に、ただいまの関白殿、三位の中将ときこえける時、 | の、「花をし見れば」を「君をし見れば」と、書き直してある。比べてご覧になって、「ただこの情趣に心惹かれます」と、おっしゃる。ついでに「先帝の圓融院の時代に、先帝が、『草紙に歌を一つ書きなさい』と、殿上人におっしゃると、一同はたいそう書きにくく、辞退なさる人々もあったのですが、先帝は『さらにただ、上手下手にはこだわらず、歌の季節感に合わなくても構わない』と、おっしゃるので、困惑してみな書き始める中に、ただ今の関白道隆殿、が三位の中将でいらっしゃった時、 |
しほのみついつもの浦のいつもいつも君をばふかく思ふはやわが | しほのみついつもの浦のいつもいつも君をばふかく思ふはやわが |
といふ歌のすゑを、「たのむはやわが」と書き給へりけるをなん、いみじうめでさせ給ひけるなどおほせらるるにも、すずろに汗あゆる心地ぞする。年わかからん人、はたさもえ書くまじきことのさまにや、などぞおぼゆる。例いとよく書く人も、あぢきなうみなつつまれて、書きけがしなどしたるあり。 | という歌の末を、『たのむはやわが』とお書きになったのを、たいそうおほめになった」などとおっしゃるにつけても、思いがけず冷汗が垂れる心地がする。もし年の若い人であったなら、さて、いかにもとても書くことができないことのようだ、などと思える。いつもたいそうよく書く人でも、あいにくとみな遠慮されて、書き損じなどしたのもある。 |
古今の草子を御前におかせ給ひて、歌どもの本をおほせられて、「これが末いかに」と問はせ給ふに、すべて、よるひる心にかかりておぼゆるもあるが、けぎょう申しいでられぬはいかなるぞ。宰相の君ぞ十ばかり、それもおぼゆるかは。まいて、いつつむつなどは、ただおぼえぬよしをぞ啓すべけれど、「さやはけにくくおほせごとをはえなうもてなすべき」と、わびくちをしがるもをかし。知ると申す人なきをば、やがてみなよみつづけて、夾算せさせ給ふを、「これは知りたることぞかし。などかうつたなうはあるぞ」といひなげく。中にも古今あまた書きうつしなどする人は、みなもおぼえぬべきことぞかし | 中宮様が、「古今和歌集」を御前にお置きになって、諸々の歌の上の句をおっしゃって、「これの下の句は何か」とお訊きになるが、中には全部、夜昼心にかかっておぼえているものもあるが、すらすらと申し出できないのはどういうことか。宰相の君でさえ、十ばかり覚えているだけ、それも思い出した数には入るまい。まして、五つ、六つしか覚えていないなどということは、全然思い出しませんという風に申し上げるべきだが、「何でそうそっけなく、せっかくのお言葉を無意味にとりなせましょう。」と、困惑し、残念がるのも面白い。知っていると申し上げる人がないと、そのまま下の句まで詠み続けて、栞をなさって、「これは、知っていることでしょうよ。何でこうおぼえが悪いのでしょう。」と言い、嘆く。「中でも『古今和歌集』を何回も書き写した人は、かならず全部でも思い出すはずの事なのです。」 |
「村上の御時に、宣耀殿の女御と聞えけるは、小一條の左の大臣殿の御女におはしけると、たれかは知り奉らざらん。まだ姫君ときこえける時、父大臣のをしへきこえ給ひけることは、「ひとつには御手をならひ給へ。つぎにはきんの御琴を、人よりことにひきまさらんとおぼせ。さては古今の歌二十巻をみなうかべさせ給ふを御学問にはせさせ給へ」となん聞え給ひける、ときこしめしおきて、御物忌なりける日、古今をもてわたらせ給ひて、御几帳を引きへだてさせ給ひければ、女御、例ならずあやし、とおぼしけるに、草子をひろげさせ給ひて、「その月、なにのをり、その人のよみたる歌はいかに」と問ひ聞えさせ給ふを、かうなりけり、と心得給ふもをかしきものの、ひがおぼえをもし、わすれたる所もあらばいみじかるべきこと、とわりなうおぼしみだれぬべし。そのかたにおぼめかしからぬ人、二三人ばかり召しいでて、碁石して数おかせ給ふとて、強ひ聞えさせ給ひけんほどなど、いかにめでたうをかしかりけん。御前にさぶらひけん人さへこそうらやましけれ。せめて申させ給へば、さかしう、やがて末まではあらねども、すべて、つゆたがふことなかりけり。いかでなほすこしひがごとみつけてをやまん、とねたきまでにおぼしめしけるに、十巻にもなりぬ。さらにふようなりけりとて、御草子に夾算さしておほとのごもりぬるもまためでたしかし。いとひさしうありておきさせ給へるに、なほこの事、かちまけなくてやませ給はん、いとわろしとて、下の十巻を、あすにならば、ことをぞ見給ひあはするとて、けふさだめてんと、大殿油まゐりて、夜ふくるまでよませ給ひける。されど、つひに負けきこえさせ給はずなりにけり。うへわたらせ給ひて、かかることなど、殿に申しに奉られたりければ、いみじうおぼしさわぎて、御誦經などあまたせさせ給ひて、そなたにむきてなん念じくらし給ひける。すきずきしうあはれなることなり」などかたりいでさせ給ふを、うへもきこしめし、めでさせ給ふ。「我は三巻四巻をだにえ見はてじ」と仰せらる。「むかしはえせ者などもみなをかしうこそありけれ。この頃は、かやうなる事やはきこゆる」など、御前にさぶらふ人々、うへの女房、こなたゆるされたるなどまゐりて、口々いひいでなどしたるほどは、まことにつゆおもふことなくめでたくぞおぼゆる。 | 中宮様がおっしゃるには「村上帝の時代に、宣耀殿の女御と呼ばれていらっしゃった方は、藤原師尹の娘でいらっしゃると、誰か知らない人がいただろうか。まだ姫君であったとき、父師尹大臣の教えが伝わっていることは『一つには習字を習いなさい。次には、七絃の琴を他人よりすぐれて上手に弾こうとお心がけなさい。最後に、『古今和歌集』の歌二十巻をみな暗誦してしまうことを学問としなさい。』と、噂になっている、と、村上天皇がお聞きになって、物忌みである日、『古今和歌集』を持っていらっしゃって、衝立を引き部屋を隔ててしまわれたので、女御は、いつもとは様子が違う、と思ったが、草紙をお広げになって、「何月、何の機会に、その人が詠んだ歌は何か」と、ご質問なさるので、女御はああそうだったのかと合点がゆかれるにつけ、興ふかいものの、もし記憶ちがいでもしたり忘れた所でもあったら大変なことだと、さぞまあ御心配になったことでしょう。天皇は歌の方面に不確かではない女房を二三人お召しになって、碁石をつかって、女御のお答の誤りを点に取るおつもりで女御に勝負をお強いになったその時など、まあどんなにすばらしくおもしろかったことでしょう。お側にいらっしゃった人こそ羨ましい。強いて仰せになると、女御は、えらそうにずっと下の句までお述べにはなりませんが、全く一点の誤りもありませんでした。天皇は、それでも何とかしてすこしでも誤りを見つけて、そこでやめにしようと、癪なほどにお思いになったのですが、十巻にもなった。一向に無駄であったと思って、草紙に栞を挿してお寝みになるのもまた喜ばしいものだ。大変長くお寝みになった後、天皇は、なおこの事で勝負をつけずにおやめになるのは甚だ具合よくないとお思いになって、下の十巻を、明日になったら参照なさると考えられて、今夜のうちに勝負をきめてしまおうと灯火を灯し、夜が更けるまで詠ませなさる。しかし、ついに女御は天皇にお負けにならなかった。『村上天皇が女御のお部屋においでになって、かくかくしかじか』と左大臣殿に申し上げに人をやられたので、大変思い騒いで、方々で読経をさせ、また左大臣殿は内裏の方角に向って祈念しつづけられたのでした。風流で感に堪えないことですね。」などお語りになるのを、一条天皇もお聞きになり、お褒めになった。「私は三巻四巻すら残らず見ていない」とおっしゃる。「昔はいい加減な人も何かしら情趣があった。この頃は、このようなことは耳に入るであろうか」など、御前に仕える人々、主上附き女房で中宮方へ出入りすることを許されている人々、出入りが許されている人々などがいらっしゃって、口々に言うことは、本当に思いがけなく、めでたく思える。 |
1 清涼殿…三巻本に「せいえうてん」とあるが、やはり「セイリヤウデン」とよむべきであろう。 2 北のへだてなる御障子…孫廂の北端に仕切りのため立ててある布張の衝立障子。荒海の障子と称し、南面に手長足長、北面に宇治の網代の墨絵をかく。 3 上の御局…清涼殿北廂にあり、后や女御の伺候する所。弘徽殿の上の御局と藤壺の上の御局とがあり、ここは前者で、当時定子中宮が伺候された。 4 あをき瓶…青磁の瓶。舶来で「秘色」と称され、貴重。 5 大納言殿…伊周。道隆の嗣子で定子の同母兄。廿一歳。 7 固紋…綾の糸を固く締めて織物の紋柄を表わすもの。浮紋に対する。 11 藤・山吹…共に襲の色目。藤は表薄紫、裏青。山吹は表薄朽葉、裏黄。 12 小半蔀の御簾…小半蔀は半蔀の小型のもので、清涼殿北廊にある。その鴨居から垂した御簾。 25 難波津…「なにはづにさくやこの花冬ごもり今は春べとさくやこの花」の歌で、当時手習のはじめの手本とされた。今の「いろは」に相当する。 29 上﨟…﨟はもと僧の修行の年数に使われ、転じて一般にも及ぼされた。ここは上﨟女房の意。 30 年ふればよはひは老いぬしかはあれど花をしみればもの思ひもなし…古今集、一春上に「染殿の后の御前に花がめに桜の花をささせ給へるを見てよめる」として見える摂政良房の歌、染殿の后は文徳天皇の皇后で清和天皇の御母、良房の女、明子という。 32 圓融院…一条天皇の御父。安和二年(九六九)九月即位、永観二年(九八四)八月譲位。 36 関白殿…道隆、永観二年正月中将で従三位に叙す。正暦四年(九九三)四月摂政から関白となる。 37 しほのみついつもの浦のいつもいつも君をばふかく思ふはやわが…作者出典とも不明。上二句は序詞。 41 古今の草子…古今和歌集。「草子」は冊子(さくし)。の音便。巻子(かんす)に対して綴じ本をいう。 45 けぎょう…さっぱりと。すらすらと。能因本「けによく」の本文は誤りと解される。 46 宰相の君…上﨟の女房の名。藤原重輔の女。中宮の女房のうち清少納言と並び称せられた才女。 55 村上の御時…村上天皇。円融天皇の御父で一条天皇の御祖父に当る。「御時」は御治世にいう。 56 宣耀殿の女御…村上天皇の女御芳子。康保四年(九六七)死去。大鏡・栄花物語にも記事が見える。 57 小一條の左の大臣殿…藤原師尹(もろまさ)。摂政忠平の五男。安和二年(九六九)左大臣・右大将。同年十月死去。 58 ひとつ…三巻本に「ひとつ」と仮名で書く。能因本に「一」とあり音読する説もある。 62 御物忌なりける日…宮中の御物忌だった日。「物忌」は神祭その他のため飲食・行為を慎しみ、沐浴などして心身を浄め、触穢を忌むこと。 63 草子をひろげさせ給ひて~…村上天皇の御言動である。 74 大殿油まゐりて…寝殿用の灯火、「まゐる」はそれをともすにいう慣用語。「御格子まゐる」の類。 76 うへわたらせ給ひて…「うへ」は主上(天皇)。村上天皇が女御のお部屋においでになって。 80 すきずきしうあはれなることなり…風流で感に堪えないことですね。「村上の御時」以下ここまで定子中宮の詞。 |
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