28. にくきもの
本文 |
現代語訳 |
語彙 |
にくきもの いそぐ事あるをりにきてながごとするまらうど。あなづりやすき人ならば、「後に」とてもやりつべけれど、さすがに心はづかしき人、いとにくくむつかし。すずりに髪の入りてすられたる。また、墨の中に、石のきしきしときしみ鳴りたる。 |
しゃくにさわるもの 急ぐことがある時にきて、長話をする客人。いい加減に扱ってもよい人ならば「あとでまた」といってかえすこともできようが、さすがに遠慮のいる人の場合は、大層しゃくにさわり、面倒だ。硯に髪が入ってすられるのもしゃくに障る。また、墨の中に石がきしきしと音を立てるのもしゃくに障る。 |
むつかし【難し】…【形容詞シク】@いやな感じだ。見苦しい。気味が悪い。A煩わしい。めんどうだ。B不快だ。うっとうしい。 すずり…【名詞】@文房具の一つ。石などで作った、墨をする道具。Aすずり箱。 きしみ【軋む】…【自マ四】物がすれ合って、きしきしと音をたてる。 |
俄かにわづらふ人のあるに、験者もとむるに、例ある所にはなくて、ほかに尋ねありくほど、いと待ちどほに久しきに、からうじて まちつけて、よろこびながら加持せさするに、この頃もののけにあづかりて、困じにけるにや、ゐるままにすなはちねぶりごゑなる、いとにくし。 |
いきなり病気になった人が、修験者を探すのに、いつも行くところにはいなくて、他に訪ね歩くことほど、たいそう待ち遠しく時間がかかって、ようやく待って会って、喜びながら加持祈祷をさせなさるのに、近頃方々の物の怪調伏に閉係して疲れきっているのか、坐るや早々眠り声を出すことは、たいそうしゃくに障る。 |
にはか【俄か】…【形容動詞ナリ】突然である。いきなり。だしぬけに。 わづらふ【煩ふ】…【自ハ四】@苦しむ。悩む。困惑する。A病気になる。病む。B煩わしい思いをする。苦労する。難儀する。手間をかける。 ひさし【久し】…【形容詞シク】@長い。▽期間や、時間についていう。A時間がかかる。B久しぶりだ。 からうして…【副詞】形容詞「辛し」の連用形+接続助詞「して」−「からくして」のウ音便。やっと。ようやく。 まちつけ【待ちつく】…【他カ下二】待ち受ける。待って会う。 |
なでふことなき人の、笑がちにて物いたういひたる。火桶の火、炭櫃などに、手のうらうち返しうち返し、おし のべなどしてあぶりをる者。いつかわかやかなる人など、さはしたりし。老いばみたる者こそ、火桶のはたに足をさへもたげて、物いふままにおしすりなどはすらめ。さやうのものは、人のもとにきて、ゐんとする所を、まづ扇してこなたかなたあふぎちらして、塵はきすて、ゐもさだまらずひろめきて、狩衣のまへまき入れてもゐるべし。かかることは、いふかひなき者のきはにやと思へど、すこしよろしきものの 式部の大夫などいひしがせしなり。 |
とりたてていうほどのこともない人が、妙に笑顔ばかりしてしゃべっている。火桶や炭櫃に手のひらを裏返し裏返しどんどん伸ばしている者。いつ若々しい人がそんなことをしたろうか。年寄りがかったものこそ火桶のわきに足などさえもたげて、ものを言うだけで修繕などはしないだろう。そのような者は、人のもとにきて、座っているところを、まず扇を持ち出して、こちらもあちらも扇ぎ散らかして、塵を履き捨て、居住まいもきちんとせずふらふらとして、狩衣の前の帯から下に垂れた所は向うへはねている。こうした不作法なことは、とるに足りぬ身分の者がするのかと思うけれど、少しは人並みの式部の大夫などという者がしているのであった。 |
ひおけ【火桶】…【名詞】木製の丸火鉢。胴の表面に漆を塗って蒔絵(まきえ)を施したものもある。[季語] 冬。 すびつ【炭櫃】…【名詞】床(ゆか)を切って作った四角の炉。いろり。一説に、部屋に据えつけた角火鉢。[季語] 冬。 おし【押し】…【接頭語】(動詞について)〜する。強いて〜する。ずんずん〜する。などの意を表す。また、全体を無造作に、などの意を含んで、下の動詞を強める。 のべ【伸ぶ】【延ぶ】…【他バ下二】@伸ばす。長くする。A延ばす。延期する。Bのんびりさせる。ゆったりとさせる。 ばみ【ばむ】…【接尾語】〔体言や動詞の連用形、形容詞の終止形などに付いて〕…じみる。…めく。…がかる。▽上の語のような性質・ようすを帯びるの意を表す。 かりぎぬ【狩衣】…【名詞】公家・武家が広く用いた表着(うわぎ)の一種。丸えりで、袖を後ろ身頃(みごろ)にわずかに縫い付けて動きやすいようにし、袖口にはくくり紐をつけて絞れるようにしてあるもの。下には「指貫(さしぬき)」をはく。もと鷹狩りなどに用いる狩猟用の服であったが、平安時代には貴族の普段着・外出着として用いられ、以後、公家の平服となった。 |
また、酒のみてあめき、口をさぐり、ひげあるものはそれをなで、さかづきこと人にとらするほどのけしき、いみじうにくしとみゆ。また、「のめ」といふなるべし、身ぶるひをし、かしらふり、口わきをさへひきたれて、わらはべの「こふ殿にまゐりて」などうたふやうにする、それはしも、まことによき人のし給ひしを見しかば、心づきなしとおもふなり。 |
また、酒を飲んで騒ぎ、口を触り、ひげがあるものはそれをなで、盃を人に取らせる時の様子は、たいそうしゃくにさわるものにみえる。また、「飲め」というに違いなく、身震いをし、頭をふり、口をへの字にして、子供たちの、「国府殿に参りて」などと謡うようにする、それというのも、まことに高い位の人がなされているものを見たので、気に食わないと思うのである。 |
さぐり【探る】【捜る】…【他ラ四】@手や足で触って確かめる。A尋ね求める。 べし…【助動ク】《接続》(1)活用語の終止形に付く。ただしラ変型活用の語には連体形に付く。(2)上一段活用の語には、「見べし」のように、イ段の音で終わる語形(未然形または連用形)に付くことがある。@〔推量〕…にちがいない。きっと…だろう。(当然)…しそうだ。▽確信をもって推量する意を表す。A〔意志〕(必ず)…しよう。…するつもりだ。…してやろう。▽強い意志を表す。B〔可能〕…できる。…できそうだ。…できるはずだ。C〔適当・勧誘〕…(する)のがよい。…(する)のが適当である。…(する)のがふさわしい。▽そうするのがいちばんよいという意を表す。D〔当然・義務・予定〕…するはずだ。当然…すべきだ。…しなければならない。…することになっている。▽必然的にそうでなければならないという意を表す。E〔命令〕…せよ。 |
物うらやみし、身のうへなげき、人のうへいひ、つゆちりのこともゆかしがり、きかまほしうして、いひしらせぬをば怨じ、そしり、また、わづかに聞きえたることをば、我もとよりしりたることのやうに、こと人にもかたりしらぶるもいとにくし。 |
人のものをうらやみ、自分の身の上を嘆き、人の身の上を言い、ちょっとしたことでも知りたがり、聞きたがって、言い知らせぬことを恨み、非難して、また、わずかに聞くに及んだことを、自分がもとから知っていることのように、他人にも語り知らせるということも、大変しゃくに障るものだ。 |
うへ【上】…【名詞】@表面。うわべ。おもて。A上方。上部。B付近。ほとり。C天皇。主上。▽中世以降、将軍や主君にも用いる。D奥方。奥様。▽貴人の妻の尊敬語。E御座所。高貴な方の部屋。F殿上(てんじよう)の間(ま)。清涼殿内にある殿上人の控え室。G上局(うえつぼね)。清涼殿内の、中宮や女御(にようご)の控え室。H上位。上。▽身分・地位・程度などについていう。Iその人や物に関すること。身の上。Jそのうえ。▽あることにさらにある物ごとが加わる意。K〔下に「は」を伴って〕…である以上。…からには。L上。御方様。▽貴婦人の呼び名に「の上」の形で添えて尊敬の意を表す。 |
物きかむと思ふほどに泣くちご。からすのあつまりてとびちがひ、さめき鳴きたる。 |
ものを書こうと思うときに限ってなく幼児。からすが集まって飛び交い、騒ぎ鳴くこともしゃくにさわる。 |
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しのびてくる人見しりてほゆる犬。あながちなる所にかくしふせたる人の、いびきしたる。また、しのびくる所に、長烏帽子して、さすがに人に見えじとまどひ入るほどに、物につきさはりて、そよろといはせたる。伊豫簾などかけたるにうちかづきて、さらさらと鳴らしたるも、いとにくし。帽額の簾は、まして、こはじのうちおかるるおといとしるし。それも、やをらひきあげて入るは、さらに鳴らず。遣戸をあらくたてあくるもいとあやし。すこしもたぐるやうにしてあくるは、鳴りやはする。あしうあくれば、障子などもごほめかしうほとめくこそしるけれ。 |
人目を忍んで来る人を、それと知って吠える犬。とんでもないところに隠れ、伏している人が、いびきをしていること。また、忍び来るところに、わざわざ目立つ長烏帽子を被って、さすがに人には見えないと迷いこむと、物に突き当たってガタンといわせること。伊豫簾などかけてあるのに、ふっと近づいて、さらさらと鳴らすことも、たいそうしゃくにさわる。額かくしの簾は、まして、簾の芯がゴトゴトいう音はたいそうその通りだ。それも、静かに引き上げてはいるならばそれほど鳴らないのだ。遣戸を荒々しくたてて歩くのもたいそう不都合だ。少し持ち上げるようにして歩けばどうして鳴るだろうか。下手に開ければ障子などもゴロゴロと音を立ることこそ愚かしいことよ。 |
しるし【著し】…【形容詞ク】@はっきりわかる。明白である。A〔「…もしるし」の形で〕まさにそのとおりだ。予想どおりだ。 やをら…【副詞】ゆっくり。静かに。そっと。▽物事が静かに進行するさま。 あやし【怪し】【奇し】…【形シク】@不思議だ。神秘的だ。Aおかしい。変だ。Bみなれない。もの珍しい。C異常だ。程度が甚だしい。Dきわめてけしからぬ。不都合だ。E不安だ。気がかりだ。 もたぐ【擡ぐ】…【他ガ下二】持ち上げる。 あしう【悪し】…【形容詞シク】@悪い。A荒れ模様である。▽天候が悪い。Bみすぼらしい。いやしい。C下手だ。Dまずい。▽味が悪い。E具合が悪い。不都合である。「悪しく」のウ音便。 ごほめか【ごほめく】…【自カ四】ごろごろと音がする。 しる【痴る】…【自ラ下二】ぼんやりとなる。ぼける。愚かになる。 |
ねぶたしとおもひてふしたるに、蚊のほそごゑにわびしげに名のりて、顔のほどにとびありく。羽風さへその身のほどにあるこそいとにくけれ。 |
ひどく眠たいと思って横なっているところへ、小さい声で心細く鳴いて、顔のあたりを飛び歩く。羽の風さえ、その体相応にあることは、たいそうしゃくにさわる。 |
ねぶたし【眠たし】【睡たし】…ひどくねむい。ねむたい。 ほそごゑ【細声】…【名詞】かぼそくて弱々しい声。小さい声。 はかぜ【羽風】【名詞】鳥・虫などの羽ばたきによって生ずる風。 みのほど【身の程】…【名詞】@身分や能力の程度。分際。A身の上。 |
きしめく車にのりてありく者。耳もきかぬにやあらんといとにくし。わが乗りたるは、その車のぬしさへにくし。また、物語するに、さし出でして我ひとりさいまくる者。すべてさしいでは、わらはもおとなもいとにくし。あからさまにきたる子ども・わらはべを、見入れらうたがりて、をかしきものとらせなどするに、ならひて常にきつつ、ゐ入りて調度うちちらしぬる、いとにくし。 |
ギシギシいう車に乗って歩く主人。評判も聞かずに生活しているのかと、しゃくにさわる。私が乗る折には、たいそうその車の主人さえしゃくにさわる。また、物語をするのに自分ひとりをする差し出口もの。すべてしゃべってしまっては、子供も大人もたいそうしゃくに障る。突然来た子供たちを、目をかけ可愛がって、面白いものを受け取らせたりするので、親しくなっていつも来ながら、居座って手回りの道具を散らかしてしまうのは、たいそうしゃくにさわる。 |
みみ【耳】…【名詞】@五官の一つ。音を聞く器官。A聞くこと。聞く能力。Bうわさ。評判。C針の穴。めど。▽耳に穴があることから。 あら【あり】…【自ラ変】@(人・動物などが)いる。(無生物・物事が)ある。A生きている。無事でいる。B住む。暮らす。生活する。Cちょうどそこにいる。居あわせる。Dすぐれたところがある。E〔「世にあり」の形で〕繁栄して暮らす。時めいて過ごす。F行われる。起こる。Gたつ。経過する。 さしいで【差し出で】…【名詞】出しゃばり。 あからさま…【形動ナリ】@にわかだ。突然。急だA㋐ちょっとの間である。しばらく。㋑(「あからさまにも」の形で、下に打消しの言葉を伴って)かりそめにも。まったくBあらわだ。明白だ。あきらか。ありのまま。C仮に。その場しのぎに。 |
家にても宮づかへ所にても、あはでありなんとおもふ人の来たるに、そら寝をしたるを、わがもとにあるもの、おこしにより来て、いぎたなしとおもひ顔にひきゆるがしたる、いとにくし。いままゐりのさしこえて、物しり顔にをしへやうなる事いひ、うしろめたるいとにくし。 |
実家でも、宮仕えしているところでも会いたくないと思う人が来たので、嘘寝しているのに、私の侍女が起こしに来て、このお寝坊さんと思っているような顔で揺るがし起こそうとするのは、たいそうしゃくに障る。新参者が古参の人をさしおいて、知った風に教えごとをしたり、世話をやいたりするのはたいそうしゃくに障る。 |
あは【会う】【合う】【逢う】…【自ハ四】@離れていたものが一つになる。A一致する。調和する。似合う。B結婚する。男女関係を持つCあることの起こりにちょうどそこにいる。うまく時期に巡り合う。D姿を認めるところにいる。会う。出会う。出くわす。遭遇する。E互いに顔を見る。面会する。F対抗する。G収入が支出と同じかそれ以上になる。割に合う。損が出ない。H(動詞の連用形について)複数の物の作を表す。みんな〜する。〜しあう。 おもひがほ【おもひ顔】…【名詞】【形動ナリ】〜と思っている顔つき。心惹かれているような顔つき。また、そのさま。 |
わがしる人にてある人の、はやう見し女のことほめいひ出でなどするも、程へたることなれど、なほにくし。まして、さしあたりたらんこそおもひやらるれ。されど、なかなかさしもあらぬなどもありかし。 |
私の想い人が、以前付き合った女のことをほめて口に出すのも、ずっと以前のことであるが、なおしゃくに障る。まして、目前のなまなましい事実であったなら、その不快さはどんなか、思いやられることだ。しかし、場合によってはそうでないこともあるものだ。 |
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はなひて誦文する。おほかた、人の家のをとこ主ならでは、たかくはなひたる、いとにくし。蚤もいとにくし。衣のしたにをどりありきてもたぐるやうにする。犬のもろ聲にながながとなきあげたる、まがまがしくさへにくし。 |
くしゃみしてまじないを口にすることはしゃくに障る。大体人の家の男主人以外に、大きくくしゃみするのは、たいそうしゃくにさわる。のみもたいそうしゃくにさわる。下着の下に踊り歩いて持ちあげるようにすること。犬が声を合せて長々と吠えたてるのは、不吉な感じさえしていやだ。 |
おほかた【大方】…【名詞】@全体。大体。一帯。A普通。世間一般。 ならでは…【連語】〜でなくては。〜以外には。 もたぐる【もたぐ】…【他ガ下二】持ち上げる。起こす。 |
あけて出で入る所たてぬ人、いとにくし。 |
開けて出入りする気配を感じさせぬ人は、たいそうしゃくにさわる。 |
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1 にくきもの…不快なもの、いやなもの、しゃくにさわるもの。憎悪のような強い意はないらしい。
2 ながごとするまらうど…長話をする客。
3 あなづりやすき人ならば、「後に」とてもやりつべけれど…いい加減に扱ってもよい人ならば「あとでまた」といってかえすこともできようが。
4 さすがに心はづかしき人…こちらが気恥かしく感ずるような人、すなわち遠慮のいる人の場合は、「後に」と扱うわけにもいかないので。
5 験者もとむるに…〔二五〕「すさまじきもの」、〔二五七〕「くるしげなるもの」などと併せ読み、病気治療を加持祈祷にのみ頼った当時の習俗を考えたい。
6 よろこびながら加持せさする…感謝しいしい加持をさせると。「加持」は仏力を衆生に加附してその衆生を任持するの義。祈祷は仏力を信者に加附し、信者をしてこれを受授させるので祈祷をも加持という。
7 この頃もののけにあづかりて、困じにけるにや、ゐるままにすなはちねぶりごゑなる…近頃方々の物の怪調伏に閉係して疲れきっているのか、坐るや早々眠り声を出す。
8 なでふことなき人の…とりたてていうほどのこともない人が。「なでふ」は「何といふ」の意。
9 笑がちにて物いたういひたる…妙に笑顔ばかりしてしゃべっている。
10 をる…「をる」は軽蔑すべき状態の場合によく用いられる。源氏物語にも帚木の巻その他に用例がある。
11 いつかわかやかなる人など、さはしたりし…いつ若々しい人がそんなことをしたろうか。
12 ゐもさだまらずひろめきて…いずまいもきちんとせずふらふらとして。「ひろめく」を広がるの意とするのは誤り。
13 狩衣のまへまき入れてもゐる…狩衣の前の帯から下に垂れた所は向うへはねておくのが作法であった。
14 かかることは、いふかひなき者のきはにやと思へど…こうした不作法なことは、とるに足りぬ身分の者がするのかと思うけれど。
15 すこしよろしきものの…すこしは人並の。
16 式部の大夫…式部省の三等官である式部丞は六位相当であるが、五位に叙して留任するときこれを式部大夫という。ここは実在の人について体験を語ったものと解される。
17 あめき…わめく、叫ぶなどの意。
18 さかづきこと人にとらするほどのけしき…盃を他の人にさすときの様子。
19 口わきをさへひきたれて…口を「へ」の字なりにすることであろう。
20 こふ殿…三巻本に「こう殿」、能因本に「こほとの」とあり、その他「この殿」とする本もある。もし「かう殿」とすれば守殿の意となるが、おそらく「こふ殿」が正しく、国府殿の意であろう。
20.5 うたふ…「うたふ」を一説に訴うの意とするが、これも謡うの意と解すべきで、古来童謡の詞章かとされているのは首肯してよい。
21 それはしも、まことによき人のし給ひしを見しかば、心づきなしとおもふなり。…それはなんと、実際に高い身分の人がなさったのを見たので、気にくわないと思うのだ。
22 つゆちりの…能因本に「つゆばかりの」とある。おそらくその方が原形に近いであろう。
23 こと人にもかたりしらぶる…他の人にも図にのって吹聴する。「かたりしらぶる」は、能因本に「語りしらべいふ」とあり、解釈にも、調べいう、辻つまを合せていう、語りちらす、同じことをくり返しするなど諸説があるが、私見としては、国語大辞典の、語に調子がつくの説を採り、こう解したい。
24 さめき鳴きたる。…騒がしくすること。
25 あながちなる所…無理な所、すなわち隠すべきでない所。
26 長烏帽子…冠に対して略式。目に立ちやすいから忍び所には着用すべきではないの意をこめている。
27 そよろ…擬声語。物にふれてガサッと鳴る音。
28 伊豫簾…伊予国浮穴郡露峰の山中に産する篠の茎で編んだ粗末な簾。中古文学に所見が多い。
29 さらさらと鳴らしたるも…頭にのせ被うことから、簾をくぐり入ることに用いられる。
30 帽額の簾…簾の上辺に布帛を横につけて縁としたもの。帽額はマウカクの略音便で人の額にあたるもの、額かくしの意。
31 こはじ…簾をまくときにしんとする細長い薄板。簾の鉤(こ)と解するのはよくない。
32 おかるる…ゴトゴト鳴る意の擬声語「ごほめく」が形容詞として用いられた形。
33 ほとめく…擬声語。ホトホト音を立てるという意。枕草子にはいったいに擬声語が多い。感覚的世界を重視している一証左であろう。
34 わびしげ…切なそうに。心細そうに。
35 名のりて…自分の名を言う、存在を告げるなどの意。ここは単に鳴いての意であるが、表現としておもしろい。春曙抄に「蚊」の字音「ブン」を連想しているのはうがち過ぎであろう。
36 きしめく車…ギシギシ嗚る車。
37 者…持主。このあたり作者の車に対する関心に注意したい。
38 物語する…この場合は四方山話というような意。
39 さいまくる…才捲くる、才抂ぐるなどの諸説もあり、国語学的に多くの問題を蔵していて俄かに断定は許されないが、「さい」は「さき」の音便と見られ、さきがけをする、先ばしりする、さし出ぐちをするなどの意に解するのがよいと考える。
40 見入れらうたがりて…目をかけかわいがって。「見入れ」は普通内を見すかす、注視するなどの意に用いられる。
41 ゐ入りて調度うちちらしぬる…坐り込んで手廻りの道具を散してしまう。
42 わがもとにあるもの…自分の家に仕えている者。侍女をいう。
43 いぎたなし…眠りをむさぼる状態。寝坊。
44 いままゐりのさしこえて…新参者が古参の人をさしおいて。
45 うしろめたる…世話をやくことを「うしろみる」という。
46 わがしる人にてある人…わがものとする人。女性からいえば夫や愛人をさす。「しる」は領するの義。
47 女のことほめいひ出でなどするも、程へたることなれど、なほにくし…以前に関係した女のことをほめて口にしたりするのも―ずっと前のことではあるが―やはり不快だ。
48 さしあたりたらんこそおもひやらるれ…目前のなまなましい事実であったなら、その不快さはどんなか、思いやられることだ。
49 なかなかさしもあらぬなどもありかし…場合によってはかえってそうでもないこともあるものだ。過去のことは詳しい事情が分らないので、漠然と嫉妬を感ずることもあるが、現在のことは事情が明瞭だから判断し易いというのであろう。作者の理性的な性格を示すとともに、論理の進め方としても注意される。
50 はなひて誦文する…くさめをしてまじないの文句を唱えるのはにくらしい。
51 人の家のをとこ主…一家の男主人。浜臣説では、女方よりいう詞。
52 もろ聲にながながとなきあげたる…声を合せて長々と吠えたてるのは、不吉な感じさえしていやだ。「まが」は禍の義。