31. こころゆくもの
本文 |
現代語訳 |
語彙 |
こころゆくもの よくかいたる女絵の、ことばをかしうつけておほかる。物見のかへさに、乗りこぼれて、をのこどもいとおほく、牛よくやる者の車はしらせたる。しろくきよげなるみちのくに紙に、いといとほそう、かくべくはあらぬ筆してふみかきたる。うるはしき糸のねりたる、あはせぐりたる。てうばみに、てうおほくうちいでたる。物よくいふ陰陽師して、河原にいでて呪詛のはらへしたる。よる寝おきてのむ水。 |
気がせいせいするもの。うまく描けた大和絵の、物語絵の詞書をおもしろくつけて分量の多いもの。見物の帰り道に、牛車から裾がはみ出すほど多く乗り込んで、おつきの男たちも大変多く、牛をうまく操る者が車を走らせる。白くきれいなみちのくの紙に、とてもとても細く、そのように書くには不適当な筆で手紙を書く。きちんと美しい糸が(灰汁で煮て)柔らかくなったのを合わせて着ること。双六で、調が多く出ること。弁舌さわやかな占者に頼んで、河原に出て呪詛の祓いをすること。夜寝起きして飲む水。 |
うるはし【麗し】【美し】【愛し】…【形容詞シク】①壮大で美しい。壮麗だ。立派だ。②きちんとしている。整っていて美しい。端正だ。③きまじめで礼儀正しい。堅苦しい。④親密だ。誠実だ。しっくりしている。⑤色鮮やかだ。⑥まちがいない。正しい。本物である。 ねり【練る】【他ラ四】①こねる。こねまぜる。②絹を灰汁(あく)で煮て柔らかくする。③精錬する。精製する。 てうばみ【調半】【調食】…【名詞】双六(すごろく)の一つ。二つのさいころを振って同じ目を出すことを競う遊び。◆目がそろうのが「調」、そろわないのが「半」。 |
つれづれなるをりに、いとあまりむつまじうるあらぬまらうどの来て、世の中の物がたり、此の頃あることのをかしきもにくきもあやしきも、これかれにかかりて、おほやけわたくしおぼつかなからず、聞きよきほどにかたりたる、いと心ゆく心地す。 |
することもなく手持ち無沙汰な世の中のことをものがたり、この頃の出来事の風情がある事も、見苦しいことも、みっともないことも、この人にかかっては、表向きの話でも内輪の話でもあいまいでなく、聞きやすく物語るのは、たいそう気がせいせいする心地がする。 |
つれづれなり【徒然なり】…【形動ナリ】①することもなく手持ちぶさただ。所在ない。②しんみりと物思いにふけっている。もの寂しくぼんやりしている。 にくし【憎し】…【形ク】①しゃくにさわる。気に入らない。いやだ。憎らしい。②感じが悪い。みっともない。見苦しい。③あっぱれだ。見事だ。優れている。▽憎く感じるほど優れているようす。 |
神・寺などにまうでて物申さするに、寺は法師、社は禰宜などの、くらからずさわやかに、思ふ程にもすぎてとどこほらず聞きよう申したる。 |
神社や寺に、人をやって願い事を告げ申し上げるのに、寺では法師、神社では禰宜などの、明るくさわやかに、思った通りよりもよく、滞りなく、聞きとげ申すことは、気のせいせいすることだ。 |
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1こころゆくもの…気がせいせいするもの。満足なもの。
2女絵…男絵、すなわち唐絵に対し、古物語の類に取材した大和絵をいうか。
3ことばをかしうつけておほかる…物語絵の詞書をおもしろくつけて分量の多いもの。前田本も「つけて」であるが、能因本には「つゝけて」とある。
4物見のかへさ…賀茂祭・御禊・行幸などの行列を見物すること。「かへさ」は帰途。「かへるさ」の略。
5乗りこぼれて…女房達が多数同車して簾の下から衣などのはみ出たさま。
6をのこども…車に従う男たち。
7うるはしき糸のねりたる…練ってきちんとした糸をより合せた。「練る」は生絹や糸を灰汁で煮て柔くすること。
8てうばみ…調半。双六に使用する詞。二つの賽に同じ目の出るのが調、不同なのが半。「てう」は調目で数の名目をいう。
9物よくいふ陰陽師して…弁舌さわやかな占者に頼んで。
10呪詛のはらへ…人から呪われた際、災難をよけるための祓。
11おほやけわたくしおぼつかなからず…表向きの話でも内輪の話でもあいまいでなく。
12神・寺などにまうでて物申さするに…神仏に人をして願う事を告げ申させるのに。
13禰宜…伊勢神宮はじめ諸社に奉仕し、宮司・神主に次ぐ神職。「ねぐ」の名詞形から転じた語。