36.七月ばかりいみじうあつければ | |
本文 | 現代語訳 |
七月ばかりいみじうあつければ、よろづの所あけながら夜もあかすに、月の頃は寝おどろきて見いだすに、いとをかし。やみもまたをかし。有明、はたいふもおろかなり。 | 七月残暑のころに、たいそう暑いので、とびらをすべて開け放しながら夜を明かすのに、月が出ているころにふと眼がさめて外を見ると、実によい。闇もまた良い。有明の月は、またいうまでもない。 |
いとつややかなる板の端ちかう、あざやかなる畳一ひらうち敷きて、三尺の几帳、おくのかたにおしやりたるぞあぢきなき。端にこそたつべけれ。おくのうしろめたからんよ。 | たいそう潤いがあって美しい板敷の端の方に、鮮明な色あいの畳一枚をちょっと敷いて、三尺の几帳を奥の方に押しやるのもつまらない。端の方にこそ立つべきだ。奥の方が気がかりだとでもいうのかしら。 |
人はいでにけるなるべし、うす色の、うらいとこくて、うへはすこしかへりたるならずは、こき綾のつややかなるが、いとなえぬを、かしらごめに引き着てぞ寝たる。香染のひとへ、もしは黄生絹のひとへ、くれなゐのひとへ、袴の腰のいとながやかに、衣の下よりひかれ着たるも、まだとけながらなめり。そとのかたに髪のうちたたなはりてゆるらかなる程、ながさおしはかられたるに、またいづこよりにかあらむ、朝ぼらけのいみじう霧りたちたるに、二藍の指貫に、あるかなきかの色したる香染の狩衣、白き生絹にくれなゐのとほすにこそはあらめ、つややかなる、霧にいたうしめりたるをぬぎ、鬢のすこしふくだみたれば、烏帽子のおし入れたるけしきも、しどけなく見ゆ。 | 昨夜通ってきた男は出て行ってしまった。薄紫色の、裏が大変濃くて表面はすこし色があせたのか、さもなければ濃い紅の綾織物の光沢のあるのがまだそうなえていないのを頭からすっぽりとひきかぶって寝ている。香染の単衣、若しくは黄色の生絹の単衣、紅の単衣、衣の下からたいそう長々と引かれるように着こなしているのも、まだ解けたままなのだろう。外の方に髪の毛が重なりあってゆったり出ている具合から、およそ長さは推量されたが、またどこからであろうか、朝ぼらけがたいそう霧りたっているところに、二藍の指貫に、薄い色をした香染の狩衣、白い生絹の単衣に紅の打衣の色が透くせいか、つやつやしい、それが朝霧にたいそうしめっているのを脱いで、髪が少しふくらみすれば、烏帽子を押し入れる様子も、だらしなく見える。 |
朝顔の露おちぬさきに文かかむと、道の程も心もとなく、「麻生の下草」など、くちずさみつつ、我がかたにいくに、格子のあがりたれば、御簾のそばをいささかひきあげて見るに、おきていぬらん人もをかしう、露もあはれなるにや、しばしみたてれば、枕がみのかたに、朴にむらさきの紙はりたる扇、ひろごりながらある。みちのくに紙の畳紙のほそやかなるが、花かくれなゐか、すこしにほひたるも、几帳のもとにちりぼひたり。 | 朝顔の露が落ちきる前に手紙を書こうと、道中不安で落ち着かなく、「麻生の下草」などと、口ずさみながら、好き勝手な方向に行けば、格子が上がっていたので、御簾のそばをちょっと引き上げて見ると、ここから起きて帰ったと思う男のことにも興味がわき、また朝露の風情も見捨て難いのか、少し見立てれば、枕元に、朴の木に紫の紙を張った扇が、ひろがりながらある。檀紙の紙を畳紙にして細やかにするが、花色か紅色か、少しほんのりした色の感じであるのも、几帳の内側に散らばっている。 |
人けのすれば、衣のなかよりみるに、うちゑみて長押におしかかりてゐぬ。恥ぢなどすべき人にはあらねど、うちとくべき心ばへにもあらぬに、ねたうも見えぬるかな、と思ふ。「こよなき なごりの御朝寝かな」とて、簾のうちになから入りたれば、「露よりさきなる人のもどかしさに」といふ。をかしきこと、とりたてて書くべき事ならねど、とかくいひかはすけしきどもはにくからず。 | 人の気配がするので、着物の中から見てみると、含み笑いをして長押に寄りかかって座っている。恥じらいなどするような人ではないけれど、打ち解けるような気立てでもないので、妬ましく見えるのかな、と思う。「この上ない心残りの朝寝坊かな。」と言って、御簾のうちにお入りになると、「朝露より先に来る人が歯がゆく思われます。」と言う。趣のある事ではあるが、取り立てて書くようなことではないが、とにかかく語り合う様子は、まんざらでもない。 |
枕がみなる扇、わが持たるして、およびてかきよするが、あまりちかうよりくるにや、と心ときめきして、ひきぞ下らるる。とりて見などして、「うとくおぼいたる事」などうちかすめ、うらみなどするに、あかうなりて、人の聲々し、日もさしいでぬべし。霧のたえま見えぬべき程、いそぎつる文も、たゆみぬるこそうしろめたけれ。 | 寝ている枕元にある扇を、自分が持とうとして、及び腰になってかき寄せる、あまり近くに寄りすぎて心がときめいて身を引かずにはいられない。男は「よそよそしく思っておられることですな」など思わせぶりを言い、恨みごとなど述べるうちに明るくなって人の声もし、日も差しいるようになった。朝霧の晴れぬ間にと急いだ後朝の文も、こうして怠けてしまったのは気がかりな次第だ。 |
いでぬる人も、いつのほどにかとみえて、萩の、露ながらおしをりたるにつけてあれど、えさしいでず。香の紙のいみじうしめたる、にほひいとをかし。あまりはしたなき程になれば、たちいでて、わがおきつる所も、かくやと思ひやらるるも、をかしかりぬべし。 | この女の所から帰っていった男も、いつの間に書いたかと思われて手紙は、露がおいたまま折った萩につけてあるが、使は遠慮してさし出せずにいる。香色(丁子色)の薄様の、ひどく香をたきしめた、そのにおいが大層よい。夜が明けすぎてきまりわるい時分、お暇して自分が残してきた女の所もこんなかしらと思いやられるのも、興深いにちがいない。 |
1 七月ばかり…堺本・前田本には「六月のつごもり七月のついたちなどは」とある。残暑の頃である。但し、「六月のつごもり七月のついたち」は、新月のころであり、「月の頃」と矛盾する。 2 寝おどろきて見いだす…ふと眼がさめて外を見ると、実によい。能因本「ねおきて見いだすも」。 3 はたいふも…またいうまでもない。 4 板の端ちかう…板敷の端の方に。 5 あざやかなる…鮮明な色あいの畳一枚をちょっと敷いて。能因本に「かりそめにうちしきて」とある。 6 三尺…三尺は高さを示す。他に四尺の几帳がある。一尺は約三〇・三センチ 8 人…昨夜通ってきた男。 9 うす色の…薄紫色の、裏が大変濃くて表面はすこし色があせたのか、さもなければ濃い紅の綾織物の光沢のあるのがまだそうなえていないのを。「なえ」は着ている中に糊がおちて柔くなること。 11 香染…丁子染ともいう。丁子を濃く煮出した汁で染めた色で、薄紅に黄色をおびている。 12 もしは黄生絹のひとへ…能因本にこの一句がない。黄生絹は黄色の生絹で、生絹は練らないままの絹。 13 腰…「腰」は袴についている幅の広い二筋の紐。普通は右の腰の所でたてに結び、余りを垂らす。 14 衣の下より…衣の下から大層長々と引かれるように着なしているのも、まだ解けたままなのだろう。 15 そとのかた…外の方。能因本には「そばのかた」とある。
19 鬢のすこし…鬘をおし入れた様子も。「も」は三巻本に「と」とあるが能因本によった。 20 「麻生の下草」…古今六帖、六「桜麻の麻生の下草露しあらば明してゆかむ親は知るとも」。麻生は麻畑。 21 格子…前述の女の家の格子である。 23 しばし…三巻本に「しはしに」とあり、一説に端にと解する。「みたて」は「見立て」か。なお三巻本ではこの前に〔三五〕の一部が混入している。 25 みちのく…檀紙。畳紙はそれを二つに折って懐中に入れ種々の用に使うもの。 26 花…花色。はなだ色のこと。 27 すこしにほひたる…ほんのりした色の感じをいう。但し能因本には「にほひうつりたる」、前田本には「うつろひたる」とある。いずれにしてもここは嗅覚ではない。 28 おしかかりてゐぬ…男の様。長押は簀子と廂との境の一段高くなったところをいう。「ゐ」は坐るの意。 29 恥ぢなど…別段遠慮のいる人ではないが、といってそれ以上親しくする程の間でもないのに、寝姿を見られて癪なことだと、女は思う。 31 とかく…あれこれ語り合う二人の様子は悪くない。 32 およびてかきよする…男は自分の持っている扇で及び腰になってかき寄せる、それを女は。 35 霧のたえま…朝霧の晴れぬ間にと急いだ後朝の文も、こうして怠けてしまったのは気がかりな次第だ。「見えぬべき程」は他系統の諸本に「みえぬほどに」とあり、それに従って解しておく。 36 いつのほどにか…、いつ届けられようかと急いで書いたらしく。通説には、いつの間に書いたかと思われて。 37 萩の…手紙は、露がおいたまま折った萩につけてあるが、使は遠慮してさし出せずにいる。 |
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