56. 殿上の名対面こそ
本文 |
現代語訳 |
語彙 |
殿上の名對面こそなほをかしけれ。御前に人侍ふをりは、やがて問ふもをかし。足音どもしてくづれ出づるを、上の御局の東おもてにて、耳をとなへて聞くに、知る人の名のあるは、ふと例の胸つぶるらんかし。また、ありともよく聞かせぬ人など、此のをりに聞きつけたるは、いかが思ふらん。「名のりよし」「あし」「聞きにくし」などさだむるもをかし。 |
清涼殿における名対面ほど趣深いものはない。主上のお側に侍臣が仕えている時そのまま点呼するのも興味深い。足音などしてどやどやと出ていくのを、弘徽殿の上の御局の東面に、耳を澄まして聞くと、愛着のある人の名があるのは、いつでもふと胸がどきつくことだろうよ。また、そこにいるともはっきり聞かせない人の名乗を、この時耳にしたら、女はどう思うだろう。「よい名乗りだ」「よくない」「聞くに堪えない」など女房たちが批評するのもおもしろい。 |
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果てぬなりと聞く程に、瀧口の弓鳴らし、沓の音し、そそめき出づると、蔵人のいみじくたかく踏みごほめかして、丑寅のすみの勾欄に、高膝まづきといふゐずまひに、御前のかたにむかひて、うしろざまに、「誰々か侍る」と問ふこそをかしけれ。たかくほそく名乗り、また、人々侍はねば、名對面つかうまつらねよし奏するも、「いかに」と問へば、さはる事ども奏するに、さ聞きてかへるを、方弘きかずとて、君たちの教へ給ひければ、いみじう腹立ち叱りて、かうがへて、また瀧口にさへわらはる。 |
侍臣の名対面がすんだようだな、と聞くと、瀧口の弓鳴らし、靴の音がして、ざわざわ出てゆくと、蔵人がごとごと沓音を立てて、丑寅のすみの勾欄に、ひざまずくというたたずまいに、御前のかたにむかって、後ろ向きざまに、「誰かいらっしゃっているのか」と訊かれることさえ面白い。高く細く名乗り、また欠席の人々があると、名乗をあげさせぬ理由を奏上するにも。蔵人が「どうしてか」とたずねると、そのような事など奏上するのに、蔵人はそうと聞き定めて帰るのを、方弘は聞かないと言って、殿上人たちの教えを乞うたので、たいそう腹を立て、咎めなさって、また滝口にさえ笑われる。 |
くつ【沓】【靴】【履】…【名詞】履き物の一種。皮革・布・木・藁(わら)などで作った、足先をすっぽりと覆うもの。浅沓(あさぐつ)・深沓・靴(か)沓・半靴(ほうか)など。 かうがふ【勘ふ】【考ふ】…【他ハ下二】@習慣や暦・先例などに照らして事を定める。判断する。A罪を責める。とがめる。 |
御厨子所の御膳棚に沓おきて、いひののしらるるを、いとほしがりて、「誰が沓にかあらん、え知らず」と主殿司、人々などのいひけるを、「やや、方弘がきたなきものぞ」とて、いとどさわがる。 |
御所の厨房の御膳棚に靴を置いて、言い騒がれるのを、困ったものだと思って、「誰の靴であろうか、と、主殿司や、女房達などが言っているのを、「やや、方弘の汚きものだ」と言って、大変な騒ぎになる。 |
くつ【沓】【靴】【履】…【名詞】履き物の一種。皮革・布・木・藁(わら)などで作った、足先をすっぽりと覆うもの。浅沓(あさぐつ)・深沓・靴(か)沓・半靴(ほうか)など。 いとほし…【形シク】@気の毒だ。かわいそうだ。Aかわいい。B困る。いやだ。 |
宮廷の行事に関する評論の一。宮仕えの体験にもとづく。
1 殿上の名對面…清涼殿における名対面。名対面は、宿直奏(とのいもうし)または名謁(みょうえつ)とも称し、毎夜亥の一刻(花鳥余情。時中群要は二刻)宿直の侍臣次いで滝口の点呼を行う。「日中行事」に記事がある。
3 足音どもしてくづれ出づる…名対面のために侍臣が参集するさま。「くづれ出づる」は何かの固まりが崩れるようにどやどや出てゆく様子をいったのであろう。
4 上の御局…清涼殿北廂にある后妃の休息所。弘徽殿の上の御局と藤壺の上の御局とあり、ここは前者。
10 瀧口…滝口の武士。清涼殿東北方御溝水の落ち口(滝口)に詰所があり、禁中警護の任をもつ。
11 弓鳴らし…鳴弦・弦打ちと称し、矢をつがえず手で弓弦を張って鳴らし、妖気をはらう。
12 そそめき出づると…「そそめく」は擬声語。「出づると」の「と」は能因本「に」。
13 ごほ…「ごほ」は擬声語。
15 奏するも…能因本「…奏するを」。
18 方弘…左馬権頭源時明の子。長徳二年正月蔵人。
22 御膳棚…御食膳を納めておく棚。