74. 懸想人にて来たるは | |
本文 | 現代語訳 |
懸想人にて来たるはいふべきにもあらず、ただうち語らふも、また、さしもあらねど、おのづから来などもする人の、簾の内に人々あまたありて物などいふに、ゐ入りてとみも帰りげもなきを、供なるをのこ・童など、とかくさしのぞき、けしき見るに、「斧の柄も朽ちぬべきなめり」と、いとむつかしかめれば、長やかにうちあくびて、みそかにと思ひていふらめど、「あなわびし。煩悩苦悩かな。夜は夜中になりぬらむかし」といひたる、いみじう心づきなし。かのいふ者は、ともかくもおぼえず、このゐたる人こそ、をかしと見え聞えつることも、失するやうにおぼゆれ。 | 女の想い人として来た時は言うまでもなく、ただちょっと話をするのも、また、それ程でもないが、たまたま来たりする人が、御簾のうちに女房達が大勢いて、噂話などするが、居座ってすぐには帰りそうもないのを、お供の男・童などが、なんのかんのと中をのぞき、様子を見ては「斧の柄も朽ちるというものだ(それほど長時間居座るつもりだ)」と大変面倒に見えて、長々とあくびをして、自分では内密のつもりでいうのだろうが、「ああつらい。辛く苦しい目に遭ったものだ。夜といってももう夜中だろうぜ。」と言うのは、たいそう気に食わない。そんなことを言うあの者達は何とも思われず、中に入り込んでいる主人が、今まで風流だと見られていた事まで、消え失せてしまうような気がする。 |
また、さいと色に出でてはえいはず、「あな」と高やかにうちいひ、うめきたるも、「下行く水の」といとほし。 | また、そんなにひどく顔色に出しては言えず、「ああ」と高らかに言い放って、呻いたのも、口には出せないのかと気の毒だ。 |
立蔀・透垣などのもとにて、「雨降りぬべし」など聞えごつもいとにくし。いとよき人の御供人などは、さもなし。君たちなどのほどはよろし。それより下れる際は、みなさやうにぞある。あまたあらん中にも、心ばへ見てぞ率てありかまほしき。 | 立蔀・透垣などのもとで、「雨が降って来そうだ」とぶつぶつ申すのもたいそう気に食わない。大層高貴の方の供人などはそうでもない。貴族の子弟の程度の供人では、まあよい。それ以下の分際では皆上述の通りだ。大勢の供人中でも気だてのよいのを選んで連れてあるきたいものだ。 |
4 とみも…「とみも」は三巻本以外の諸本に「とみに」とあり、「も」は「に」の誤写か。 7 斧の柄も朽ちぬべき…述異記に見える晋の王室の故事。石室山で仙童の囲碁を見ている間に斧の柄が朽ち、驚いて家に帰ると知人は皆死に絶えていたという。ここは長時間が過ぎることに例えたもの。 10 煩悩苦悩…仏教語。つらく苦しい目を見るにいう。 16 「下行く水の」…古今六帖、五、いはで思ふ「心には下行く水のわき返り言はで思ふぞいふにまされる」を引く。 17 立蔀…立塀の類。土居(つちい)に柱を立て蔀格子をはめる。 18 透垣…竹や板で間をすかして作った垣。 |
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