夕顔

第三章 六条の貴婦人の物語 初秋の物語

1.霧深き朝帰りの物語

  本文  現代語訳
  秋にもなりぬ。人やりならず、心づくしに思し乱るることどもありて、大殿には、絶え間置きつつ、恨めしくのみ思ひ聞こえたまへり。   秋になった。誰のせいでもなく、自ら求めて物思いに心を尽くされることどもがあって、大殿邸には、と絶えがちなので、恨めしくばかりお思い申し上げていらっしゃった。
  六条わたりにも、とけがたかりし御気色をおもむけ聞こえたまひて後、ひき返し、なのめならむはいとほしかし。されど、よそなりし御心惑ひのやうに、あながちなる事はなきも、いかなることにかと見えたり。   六条辺りの御方にも、気の置けたころのご様子をお靡かせ申し上げてから後は、うって変わって、通り一遍なお扱いのようなのは気の毒である。けれど、他人でいたころのご執心のように、無理無体なことがないのも、どうしたことかと思われた。
  女は、いとものをあまりなるまで、思ししめたる御心ざまにて、齢のほども似げなく、人の漏り聞かむに、いとどかくつらき御夜がれの寝覚め寝覚め、思ししをるること、いとさまざまなり。   この女性は、たいそうものごとを度を越すほどに、深くお思い詰めなさるご性格なので、年齢も釣り合わず、人が漏れ聞いたら、ますますこのような辛い君のお越しにならない夜な夜なの寝覚めを、お悩み悲しまれることが、とてもあれこれと多いのである。
   
  霧のいと深き朝、いたくそそのかされたまひて、ねぶたげなる気色に、うち嘆きつつ出でたまふを、中将のおもと、御格子一間上げて、見たてまつり送りたまへ、とおぼしく、御几帳引きやりたれば、御頭もたげて見出だしたまへり。   霧のたいそう深い朝、ひどくせかされなさって、眠そうな様子で、溜息をつきながらお出になるのを、中将のおもとが、御格子を一間上げて、お見送りなさいませ、という心遣いらしく、御几帳を引き開けたので、御頭をもち上げて外の方へ目をお向けになっていらっしゃる。
  前栽の色々乱れたるを、過ぎがてにやすらひたまへるさま、げにたぐひなし。廊の方へおはするに、中将の君、御供に参る。紫苑色の折にあひたる、羅の裳、鮮やかに引き結ひたる腰つき、たをやかになまめきたり。   前栽の花が色とりどりに咲き乱れているのを、見過ごしにくそうにためらっていらっしゃる姿が、評判どおり二人といない。渡廊の方へいらっしゃるので、中将の君が、お供申し上げる。紫苑色で季節に適った、薄絹の裳、それをくっきりと結んだ腰つきは、しなやかで優美である。
  見返りたまひて、隅の間の高欄に、しばし、ひき据ゑたまへり。うちとけたらぬもてなし、髪の下がりば、めざましくも、と見たまふ。   振り返りなさって、隅の間の高欄に、少しの間、お座らせになった。きちんとした態度、黒髪のかかり具合、見事なものよ、と御覧になる。
   
 

 「咲く花に移るてふ名はつつめども

  折らで過ぎ憂き今朝の朝顔

  いかがすべき」

 

 「咲いている花に心を移したという風評は憚られますが

  やはり手折らずには素通りしがたい今朝の朝顔の花

  どうしよう」

  とて、手をとらへたまへれば、いと馴れてとく、  と言って、手を捉えなさると、大変馴れたふうに素早く、
 

「朝霧の晴れ間も待たぬ気色にて

  花に心を止めぬとぞ見る」

 

「朝霧の晴れる間も待たないでお帰りになるご様子なので

 朝顔の花に心を止めていないものと思われます」

  と、おほやけごとにぞ聞こえなす。   と、主人のことにしてお返事申し上げる。
   
  をかしげなる侍童の、姿このましう、ことさらめきたる、指貫の裾、露けげに、花の中に混りて、朝顔折りて参るほどなど、絵に描かまほしげなり。   かわいらしい男童で、姿が目安く、格別の格好をしているのが、指貫の裾を、露っぽく濡らし、花の中に入り混じって、朝顔を手折って差し上げるところなど、絵に描きたいほどである。
  大方に、うち見たてまつる人だに、心とめたてまつらぬはなし。物の情け知らぬ山がつも、花の蔭には、なほやすらはまほしきにや、この御光を見たてまつるあたりは、ほどほどにつけて、我がかなしと思ふ女を、仕うまつらせばやと願ひ、もしは、口惜しからずと思ふ妹など持たる人は、卑しきにても、なほ、この御あたりにさぶらはせむと、思ひ寄らぬはなかりけり。   通り一遍に、ちょっと拝見する人でさえ、心を止め申さない者はない。物の情趣を解さない山人も、花の下では、やはり休息したいものではないか、このお美しさを拝見する人々は、身分身分に応じて、自分のかわいいと思う娘を、ご奉公に差し上げたいと願い、あるいは、恥ずかしくないと思う姉妹などを持っている人は、下仕えであっても、やはり、このお方の側にご奉公させたいと、思わない者はいなかった。
  まして、さりぬべきついでの御言の葉も、なつかしき御気色を見たてまつる人の、すこし物の心思ひ知るは、いかがはおろかに思ひきこえむ。明け暮れうちとけてしもおはせぬを、心もとなきことに思ふべかめり。   まして、何かの折のお言葉でも、優しいお姿を拝見する人で、少し物の情趣を解せる人は、どうしていい加減にお思い申し上げよう。一日中くつろいだご様子でおいでにならないのを、物足りなく不満なことと思うようである。