第一章 紫上の物語 若紫の君登場、三月晦日から初夏四月までの物語
5.翌日、迎えの人々と共に帰京
本文 |
現代語訳 |
明けゆく空は、いといたう霞みて、山の鳥どもそこはかとなうさへづりあひたり。名も知らぬ木草の花どもも、いろいろに散りまじり、錦を敷けると見ゆるに、鹿のたたずみ歩くも、めづらしく見たまふに、悩ましさも紛れ果てぬ。 |
明けて行く空は、とてもたいそう霞んで、山の鳥どもがどこかしことなく囀り合っている。名も知らない木や草の花々が、色とりどりに散り混じり、錦を敷いたと見える所に、鹿があちこちと立ち止まったり歩いたりしているのも、珍しく御覧になると、気分の悪いのもすっかり忘れてしまった。 |
聖、動きもえせねど、とかうして護身参らせたまふ。かれたる声の、いといたうすきひがめるも、あはれに功づきて、陀羅尼誦みたり。 |
聖は、身動きも不自由だが、やっとのことで護身法をして差し上げなさる。しわがれた声で、とてもひどく歯の間から洩れて聞きにくいのも、しみじみと年功を積んだようで、陀羅尼を誦していた。 |
御迎への人びと参りて、おこたりたまへる喜び聞こえ、内裏よりも御とぶらひあり。僧都、世に見えぬさまの御くだもの、何くれと、谷の底まで堀り出で、いとなみきこえたまふ。 |
お迎えの人々が参って、ご回復されたお祝いを申し上げ、帝からもお見舞いがある。僧都は、見慣れないような果物を、あれこれと、谷の底から採ってきては、ご接待申し上げなさる。 |
「今年ばかりの誓ひ深うはべりて、御送りにもえ参りはべるまじきこと。なかなかにも思ひたまへらるべきかな」 |
「今年いっぱいの誓いが固うございまして、お見送りに参上できませぬ次第。かえって残念に存じられてなりません」 |
など聞こえたまひて、大御酒参りたまふ。 |
などと申し上げなさって、お酒を差し上げなさる。 |
「山水に心とまりはべりぬれど、内裏よりもおぼつかながらせたまへるも、かしこければなむ。今、この花の折過ぐさず参り来む。 |
「山や谷川に心惹かれましたが、帝にご心配あそばされますのも、恐れ多いことですので。そのうち、この花の時期を過ごさずに参りましょう。 |
宮人に行きて語らむ山桜 風よりさきに来ても見るべく」 |
大宮人に帰って話して聞かせましょう、この山桜の美しいことを 風の吹き散らす前に来て見るようにと」 |
とのたまふ御もてなし、声づかひさへ、目もあやなるに、 |
とおっしゃる態度や、声づかいまでが、眩しいくらい立派なので、 |
「優曇華の花待ち得たる心地して 深山桜に目こそ移らね」 |
「三千年に一度咲くという優曇華の花の 咲くのにめぐり逢ったような気がして深山桜には目も移りません」 |
と聞こえたまへば、ほほゑみて、「時ありて、一度開くなるは、かたかなるものを」とのたまふ。 |
と申し上げなさると、君は微笑みなさって、「その時節に至って、一度咲くという花は、難しいといいますのに」とおっしゃる。 |
聖、御土器賜はりて、 |
聖は、お杯を頂戴して、 |
「奥山の松のとぼそをまれに開けて まだ見ぬ花の顔を見るかな」 |
「奥山の松の扉を珍しく開けましたところ まだ見たこともない花のごとく美しいお顔を拝見致しました」 |
と、うち泣きて見たてまつる。聖、御まもりに、独鈷たてまつる。見たまひて、僧都、聖徳太子の百済より得たまへりける金剛子の数珠の、玉の装束したる、やがてその国より入れたる筥の、唐めいたるを、透きたる袋に入れて、五葉の枝に付けて、紺瑠璃の壺どもに、御薬ども入れて、藤、桜などに付けて、所につけたる御贈物ども、ささげたてまつりたまふ。 |
と、ちょっと感涙に咽んで君を拝し上げる。聖は、ご守護に、独鈷を差し上げる。それを御覧になって、僧都は、聖徳太子が百済から得られた金剛子の数珠で、玉の飾りが付いているのを、そのままその国から入れてあった箱で、唐風なのを、透かし編みの袋に入れて、五葉の松の枝に付けて、紺瑠璃の壺々に、お薬類を入れて、藤や桜などに付けて、場所柄に相応しいお贈物類を、捧げて差し上げなさる。 |
君、聖よりはじめ、読経しつる法師の布施ども、まうけの物ども、さまざまに取りにつかはしたりければ、そのわたりの山がつまで、さるべき物ども賜ひ、御誦経などして出でたまふ。 |
源氏の君は、聖をはじめとして、読経した法師へのお布施類、用意の品々を、いろいろと京へ取りにやっていたので、その近辺の樵人にまで、相応の品物をお与えになり、御誦経の布施をしてお出になる。 |
内に僧都入りたまひて、かの聞こえたまひしこと、まねびきこえたまへど、 |
室内に僧都はお入りになって、あの君が申し上げなさったことを、そのままお伝え申し上げなさるが、 |
「ともかくも、ただ今は、聞こえむかたなし。もし、御志あらば、いま四、五年を過ぐしてこそは、ともかくも」とのたまへば、「さなむ」と同じさまにのみあるを、本意なしと思す。 |
「何ともこうとも、今すぐには、お返事申し上げようがありません。もし、君にお気持ちがあるならば、もう四、五年たってから、ともかくも」とおっしゃると、「しかじか」と同じようにばかりあるので、つまらないとお思いになる。 |
御消息、僧都のもとなる小さき童して、 |
お手紙は、僧都のもとに仕える小さい童にことづけて、 |
「夕まぐれほのかに花の色を見て 今朝は霞の立ちぞわづらふ」 |
「昨日の夕暮時にわずかに美しい花を見ましたので 今朝は霞の空に立ち去りがたい気がします」 |
御返し、 |
お返事、 |
「まことにや花のあたりは立ち憂きと 霞むる空の気色をも見む」 |
「本当に花の辺りを立ち去りにくいのでしょうか そのようなことをおっしゃるお気持ちを見たいものです」 |
と、よしある手の、いとあてなるを、うち捨て書いたまへり。 |
と、教養ある筆跡で、とても上品であるのを、無造作にお書きになっている。 |
御車にたてまつるほど、大殿より、「いづちともなくて、おはしましにけること」とて、御迎への人びと、君達などあまた参りたまへり。頭中将、左中弁、さらぬ君達も慕ひきこえて、 |
お車にお乗りになるころに、左大臣邸から、「どちらへ行くともおっしゃらなくて、お出かけあそばしてしまったこと」と言って、お迎えの供人、ご子息たちなどが大勢参上なさった。頭中将、左中弁、その他のご子息もお慕い申して、 |
「かうやうの御供には、仕うまつりはべらむ、と思ひたまふるを、あさましく、おくらさせたまへること」と恨みきこえて、「いといみじき花の蔭に、しばしもやすらはず、立ち帰りはべらむは、飽かぬわざかな」とのたまふ。 |
「このようなお供には、お仕え申しましょうと、存じておりますのに、あまりにも、お置き去りあそばして」とお怨み申して、「とても美しい桜の花の下に、しばしの間も足を止めずに、引き返しますのは、もの足りない気がしますね」とおっしゃる。 |
岩隠れの苔の上に並みゐて、土器参る。落ち来る水のさまなど、ゆゑある滝のもとなり。頭中将、懐なりける笛取り出でて、吹きすましたり。弁の君、扇はかなううち鳴らして、「豊浦の寺の、西なるや」と歌ふ。人よりは異なる君達を、源氏の君、いといたううち悩みて、岩に寄りゐたまへるは、たぐひなくゆゆしき御ありさまにぞ、何ごとにも目移るまじかりける。例の、篳篥吹く随身、笙の笛持たせたる好き者などあり。 |
岩蔭の苔の上に並び座って、お酒を召し上がる。落ちて来る水の様子など、風情のある滝のほとりである。頭中将は、懐にしていた横笛を取り出して、吹き澄ましている。弁の君は、扇を軽く打ち鳴らして、「豊浦の寺の、西なるや」と謡う。普通の人よりは優れた公達であるが、源氏の君の、とても苦しそうにして、岩に寄り掛かっておいでになるのは、またとなく不吉なまでに美しいご様子に、他の何人にも目移りしそうにないのであった。いつものように、篳篥を吹く随身、笙の笛を持たせている風流人などもいる。 |
僧都、琴をみづから持て参りて、 |
僧都は、七絃琴を自分で持って参って、 |
「これ、ただ御手一つあそばして、同じうは、山の鳥もおどろかしはべらむ」 |
「これで、ちょっとひと弾きあそばして、同じことなら、山の鳥をも驚かしてやりましょう」 |
と切に聞こえたまへば、 |
と熱心にご所望申し上げなさるので、 |
「乱り心地、いと堪へがたきものを」と聞こえたまへど、けに憎からずかき鳴らして、皆立ちたまひぬ。 |
「気分が悪いので、とてもできませんのに」とお答え申されるが、ことに無愛想にはならない程度に琴を掻き鳴らして、一行はお立ちになった。 |
飽かず口惜しと、言ふかひなき法師、童べも、涙を落としあへり。まして、内には、年老いたる尼君たちなど、まださらにかかる人の御ありさまを見ざりつれば、「この世のものともおぼえたまはず」と聞こえあへり。僧都も、 |
名残惜しく残念だと、取るに足りない法師や、童子も、涙を落とし合っていた。彼ら以上に、室内では、年老いた尼君たちなどは、まだこのようにお美しい方の姿を見たことがなかったので、「この世の人とは思われなさらない」とお噂申し上げ合っていた。僧都も、 |
「あはれ、何の契りにて、かかる御さまながら、いとむつかしき日本の末の世に生まれたまへらむと見るに、いとなむ悲しき」とて、目おしのごひたまふ。 |
「ああ、どのような因縁で、このような美しいお姿でもって、まことにむさ苦しい日本国の末世にお生まれになったのであろうと思うと、まことに悲しい」と言って、目を押し拭いなさる。 |
この若君、幼な心地に、「めでたき人かな」と見たまひて、 |
この若君は、子供心に、「素晴らしい人だわ」と御覧になって、 |
「宮の御ありさまよりも、まさりたまへるかな」などのたまふ。 |
「父宮のお姿よりも、優れていらっしゃいますわ」などとおっしゃる。 |
「さらば、かの人の御子になりておはしませよ」 |
「それでは、あの方のお子様におなりあそばせな」 |
と聞こゆれば、うちうなづきて、「いとようありなむ」と思したり。雛遊びにも、絵描いたまふにも、「源氏の君」と作り出でて、きよらなる衣着せ、かしづきたまふ。 |
と申し上げると、こっくりと頷いて、「とてもすてきなことだわ」とお思いになっている。お人形遊びにも、お絵描きなさるにも、「源氏の君」と作り出して、美しい衣装を着せ、お世話なさる。 |