第一章 末摘花の物語
9.歳末に姫君から和歌と衣箱が届けられる
本文 |
現代語訳 |
年も暮れぬ。内裏の宿直所におはしますに、大輔の命婦参れり。御梳櫛などには、懸想だつ筋なく、心やすきものの、さすがにのたまひたはぶれなどして、使ひならしたまへれば、召しなき時も、聞こゆべき事ある折は、参う上りけり。 |
年も暮れた。内裏の宿直所にいらっしゃると、大輔の命婦が参上した。お櫛梳きなどの折には、色恋めいたことはなく、気安いとはいえ、やはりそれでも冗談などをおっしゃって、召し使っていらっしゃるので、お呼びのない時にも、申し上げるべき事がある時には、参上するのであった。 |
「あやしきことのはべるを、聞こえさせざらむもひがひがしう、思ひたまへわづらひて」 と、ほほ笑みて聞こえやらぬを、 「何ざまのことぞ。我にはつつむことあらじと、なむ思ふ」とのたまへば、 「いかがは。みづからの愁へは、かしこくとも、まづこそは。これは、いと聞こえさせにくくなむ」 と、いたう言籠めたれば、 「例の、艶なる」と憎みたまふ。 |
「妙な事がございますが、申し上げずにいるのもいけないようなので、思慮に困りまして」 と、微笑みながら全部を申し上げないのを、 「どのような事だ。わたしには隠すこともあるまいと、思うが」とおっしゃると、 「どういたしまして。自分自身の困った事ならば、恐れ多くとも、まっ先に。これは、とても申し上げにくくて」 と、ひどく口ごもっているので、 「例によって、様子ぶっているな」とお憎みになる。 |
「かの宮よりはべる御文」とて、取り出でたり。 「まして、これは取り隠すべきことかは」 とて、取りたまふも、胸つぶる。 陸奥紙の厚肥えたるに、匂ひばかりは深うしめたまへり。いとよう書きおほせたり。歌も、 |
「あちらの宮からございましたお手紙で」と言って、取り出した。 「なおいっそう、それは隠すことではないではないか」 と言って、お取りになるにつけても、どきりとする。 陸奥紙の厚ぼったい紙に、薫香だけは深くたきしめてある。とてもよく書き上げてある。和歌も、 |
「唐衣君が心のつらければ 袂はかくぞそぼちつつのみ」 |
「あなたの冷たい心がつらいので わたしの袂は涙でこんなにただもう濡れております」 |
心得ずうちかたぶきたまへるに、包みに、衣筥の重りかに古代なるうち置きて、おし出でたり。 |
合点がゆかず首を傾けていらっしゃると、上包みに、衣装箱の重そうで古めかしいのを置いて、押し出した。 |
「これを、いかでかは、かたはらいたく思ひたまへざらむ。されど、朔日の御よそひとて、わざとはべるめるを、はしたなうはえ返しはべらず。ひとり引き籠めはべらむも、人の御心違ひはべるべければ、御覧ぜさせてこそは」と聞こゆれば、 |
「これを、どうして、見苦しいと存ぜずにいられましょう。けれども、元日のご衣装にと言って、わざわざございましたようなを、無愛想にはお返しできません。勝手にしまい込んで置きますのも、姫君のお気持ちに背きましょうから、御覧に入れた上で」と申し上げると、 |
「引き籠められなむは、からかりなまし。袖まきほさむ人もなき身にいとうれしき心ざしにこそは」 とのたまひて、ことにもの言はれたまはず。「さても、あさましの口つきや。これこそは手づからの御ことの限りなめれ。侍従こそとり直すべかめれ。また、筆のしりとる博士ぞなかべき」と、言ふかひなく思す。心を尽くして詠み出でたまひつらむほどを思すに、 「いともかしこき方とは、これをも言ふべかりけり」 と、ほほ笑みて見たまふを、命婦、面赤みて見たてまつる。 |
「しまい込んでしまったら、つらいことだったろうよ。袖を抱いて乾かしてくれる人もいないわたしには、とても嬉しいお心遣いだ」 とおっしゃって、他には何ともおっしゃれない。「それにしても、何とまあ、あきれた詠みぶりであることか。これがご自身の精一杯のようだ。侍従が直すべきところだろう。他に、手を取って教える先生はいないのだろう」と、何とも言いようなくお思いになる。精魂こめて詠み出された苦労を想像なさると、 「まことに恐れ多い歌とは、きっとこのようなのを言うのであろうよ」 と、苦笑しながら御覧になるのを、命婦、赤面して拝する。 |
今様色の、えゆるすまじく艶なう古めきたる直衣の、裏表ひとしうこまやかなる、いとなほなほしう、つまづまぞ見えたる。「あさまし」と思すに、この文をひろげながら、端に手習ひすさびたまふを、側目に見れば、 |
流行色だが、我慢できないほどの艶の無い古めいた直衣で、裏表同じく濃く染めてあり、いかにも平凡な感じで、端々が見えている。「あきれた」とお思いになると、この手紙を広げながら、端の方にいたずら書きなさるのを、横から見ると、 |
「なつかしき色ともなしに何にこの すゑつむ花を袖に触れけむ 色濃き花と見しかども」 |
「格別親しみを感じる花でもないのに どうしてこの末摘花を手にすることになったのだろう 色の濃い『はな』だと思っていたのだが」 |
など、書きけがしたまふ。花のとがめを、なほあるやうあらむと、思ひ合はする折々の、月影などを、いとほしきものから、をかしう思ひなりぬ。 |
などと、お書き汚しなさる。紅花の非難を、やはりわけがあるのだろうと、思い合わされる折々の、月の光で見た容貌などを、気の毒に思う一方で、またおかしくも思った。 |
「紅のひと花衣うすくとも ひたすら朽す名をし立てずは 心苦しの世や」 |
「紅色に一度染めた衣は色が薄くても どうぞ悪い評判をお立てなさることさえなければ お気の毒なこと」 |
と、いといたう馴れてひとりごつを、よきにはあらねど、「かうやうのかいなでにだにあらましかば」と、返す返す口惜し。人のほどの心苦しきに、名の朽ちなむはさすがなり。人びと参れば、 「取り隠さむや。かかるわざは人のするものにやあらむ」 と、うちうめきたまふ。「何に御覧ぜさせつらむ。我さへ心なきやうに」と、いと恥づかしくて、やをら下りぬ。 |
と、とてももの馴れたように独り言をいうのを、上手ではないが、「せめてこの程度に通り一遍にでもできたならば」と、返す返すも残念である。身分が高い方だけに気の毒なので、名前に傷がつくのは何といってもおいたわしい。女房たちが参ったので、 「隠すとしようよ。このようなことは、常識のある人のすることでないから」 と、つい呻きなさる。「どうして、御覧に入れてしまったのだろうか。自分までが思慮のないように」と、とても恥ずかしくて、静かに下がった。 |
またの日、上にさぶらへば、台盤所にさしのぞきたまひて、 「くはや。昨日の返り事。あやしく心ばみ過ぐさるる」 とて、投げたまへり。女房たち、何ごとならむと、ゆかしがる。 |
翌日、出仕していると、台盤所にお立ち寄りになって、 「そらよ。昨日の返事だ。妙に心づかいされてならないよ」 と言って、お投げ入れになった。女房たち、何事だろうかと、見たがる。 |
「ただ梅の花の色のごと、三笠の山のをとめをば捨てて」 |
「ちょうど紅梅の色のように、三笠の山の少女は捨ておいて」 |
と、歌ひすさびて出でたまひぬるを、命婦は「いとをかし」と思ふ。心知らぬ人びとは、 「なぞ、御ひとりゑみは」と、とがめあへり。 |
と、口ずさんでお出になったのを、命婦は「とてもおかしい」と思う。事情を知らない女房たちは、 「どうして、独り笑いなさって」と、口々に非難しあっている。 |
「あらず。寒き霜朝に、掻練好める花の色あひや見えつらむ。御つづしり歌のいとほしき」と言へば、 「あながちなる御ことかな。このなかには、にほへる鼻もなかめり」 「左近の命婦、肥後の采女や混じらひつらむ」 など、心も得ず言ひしろふ。 |
「何でもありません。寒い霜の朝に、掻練り好きの鼻の色がお目に止まったのでしょうよ。ぶつぶつとお歌いになるのが、困ったこと」と言うと、 「あまりなお言葉ですこと。ここには赤鼻の人はいないようですのに」 「左近の命婦や、肥後の采女が交じっているでしょうか」 などと、合点がゆかず、言い合っている。 |
御返りたてまつりたれば、宮には、女房つどひて、見めでけり。 |
お返事を差し上げたところ、宮邸では、女房たちが集まって、感心して見るのであった。 |
「逢はぬ夜をへだつるなかの衣手に 重ねていとど見もし見よとや」 |
「逢わない夜が多いのに間を隔てる衣とは ますます重ねて見なさいということですか」 |
白き紙に、捨て書いたまへるしもぞ、なかなかをかしげなる。 |
白い紙に、さりげなくお書きになっているのは、かえって趣きがある。 |
晦日の日、夕つ方、かの御衣筥に、「御料」とて、人のたてまつれる御衣一領、葡萄染の織物の御衣、また山吹か何ぞ、いろいろ見えて、命婦ぞたてまつりたる。「ありし色あひを悪ろしとや見たまひけむ」と思ひ知らるれど、「かれはた、紅の重々しかりしをや。さりとも消えじ」と、ねび人どもは定むる。 |
大晦日の日、夕方に、あの御衣装箱に「御料」と書いて、人が献上した御衣装一具、葡萄染めの織物の御衣装、他に山吹襲か何襲か、色さまざまに見えて、命婦が差し上げた。「先日差し上げた衣装の色合いを良くないと思われたのだろうか」と思い当たるが、「あれだって、紅色の重々しい色だわ。よもや見劣りはしますまい」と、老女房たちは判断する。 |
「御歌も、これよりのは、道理聞こえて、したたかにこそあれ」 「御返りは、ただをかしき方にこそ」 など、口々に言ふ。姫君も、おぼろけならでし出でたまひつるわざなれば、ものに書きつけて置きたまへりけり。 |
「お歌も、こちらからのは、筋が通っていて、手抜かりはありませんでした」 「ご返歌は、ただ面白みがあるばかりです」 などと、口々に言い合っている。姫君も、並大抵のわざでなく詠み出したもとなので、手控えに書き付けて置かれたのであった。 |