第二章 明石の物語 明石の姫君誕生
4.
紫の君に姫君誕生を語る
本文 |
現代語訳 |
女君には、言にあらはしてをさをさ聞こえたまはぬを、聞きあはせたまふこともこそ、と思して、 |
女君には、言葉に表してろくにお話申し上げなさっていないのを、他からお聞きになることがあってはいけない、とお思いになって、 |
「さこそあなれ。あやしうねぢけたるわざなりや。さもおはせなむと思ふあたりには、心もとなくて、思ひの外に、口惜しくなむ。女にてあなれば、いとこそものしけれ。尋ね知らでもありぬべきことなれど、さはえ思ひ捨つまじきわざなりけり。呼びにやりて見せたてまつらむ。憎みたまふなよ」 |
「こう言うことなのだそうです。妙にうまく行かないものですね。そうおありになって欲しいと思うところには、待ち遠しくて、思っていないところで、残念なことです。女の子だそうなので、何ともつまりません。放っておいてもよいことなのですが、そうもできそうにないことなのです。呼びにやってお見せ申し上げましょう。お憎みなさいますなよ」 |
と聞こえたまへば、面うち赤みて、 |
とお申し上げになると、お顔がぽっと赤くなって、 |
「あやしう、つねにかやうなる筋のたまひつくる心のほどこそ、われながら疎ましけれ。もの憎みは、いつならふべきにか」 |
「変ですこと、いつもそのようなことを、ご注意をいただく私の心の程が、自分ながら嫌になりますわ。嫉妬することは、いつ教えていただいたのかしら」 |
と怨じたまへば、いとよくうち笑みて、 |
とお恨みになると、すっかり笑顔になって、 |
「そよ。誰がならはしにかあらむ。思はずにぞ見えたまふや。人の心より外なる思ひやりごとして、もの怨じなどしたまふよ。思へば悲し」 |
「そうですね。誰が教えこたとでしょう。意外にお見受けしますよ。皆が思ってもいないほうに邪推して、嫉妬などなさいます。考えると悲しい」 |
とて、果て果ては涙ぐみたまふ。年ごろ飽かず恋しと思ひきこえたまひし御心のうちども、折々の御文の通ひなど思し出づるには、「よろづのこと、すさびにこそあれ」と思ひ消たれたまふ。 |
とおっしゃって、しまいには涙ぐんでいらっしゃる。長い年月恋しくてたまらなく思っていらしたお二人の心の中や、季節折々のお手紙のやりとりなどをお思い出しなさると、「全部が、一時の慰み事であったのだわ」と、打ち消される気持ちになる。 |
「この人を、かうまで思ひやり言問ふは、なほ思ふやうのはべるぞ。まだきに聞こえば、またひが心得たまふべければ」 とのたまひさして、 |
「この人を、これほどまで考えてやり見舞ってやるのは、実は考えていることがあるからですよ。今のうちからお話し申し上げたら、また誤解なさろうから」 と言いさしなさって、 |
「人がらのをかしかりしも、所からにや、めづらしうおぼえきかし」 など語りきこえたまふ。 |
「人柄が美しく見えたのも、場所柄でしょうか、めったにないように思われました」 などと、お話し申し上げになる。 |
あはれなりし夕べの煙、言ひしことなど、まほならねど、その夜の容貌ほの見し、琴の音のなまめきたりしも、すべて御心とまれるさまにのたまひ出づるにも、 |
しみじみとした夕べの煙、歌を詠み交わしたことなど、はっきりとではないが、その夜の顔かたちをかすかに見たこと、琴の音色が優美であったことも、すべて心惹かれた様子にお話し出すにつけても、 |
「われはまたなくこそ悲しと思ひ嘆きしか、すさびにても、心を分けたまひけむよ」 と、ただならず、思ひ続けたまひて、「われは、われ」と、うち背き眺めて、「あはれなりし世のありさま」など、独り言のやうにうち嘆きて、 |
「わたしはこの上なく悲しく嘆いていたのに、一時の慰み事にせよ、心をお分けになったとは」 と、穏やかならず、次から次へと恨めしくお思いになって、「わたしは、わたし」と、背を向けて物思わしげに、「しみじみと心の通いあった二人の仲でしたのにね」と、独り言のようにふっと嘆いて、 |
「思ふどちなびく方にはあらずとも われぞ煙に先立ちなまし」 |
「愛しあっている同士が同じ方向になびいているのとは違って わたしは先に煙となって死んでしまいたい」 |
「何とか。心憂や。 |
「何とおっしゃいます。嫌なことを。 |
誰れにより世を海山に行きめぐり 絶えぬ涙に浮き沈む身ぞ |
いったい誰のために憂き世を海や山にさまよって 止まることのない涙を流して浮き沈みしてきたのでしょうか |
いでや、いかでか見えたてまつらむ。命こそかなひがたかべいものなめれ。はかなきことにて、人に心おかれじと思ふも、ただ一つゆゑぞや」 |
さあ、何としてでも本心をお見せ申しましょう。寿命だけは思うようにならないもののようですが。つまらないことで、恨まれまいと思うのも、ただあなた一人のためですよ」 |
とて、箏の御琴引き寄せて、掻き合せすさびたまひて、そそのかしきこえたまへど、かの、すぐれたりけむもねたきにや、手も触れたまはず。いとおほどかにうつくしう、たをやぎたまへるものから、さすがに執念きところつきて、もの怨じしたまへるが、なかなか愛敬づきて腹立ちなしたまふを、をかしう見どころありと思す。 |
と言って、箏のお琴を引き寄せて、調子合わせに軽くお弾きになって、お勧め申し上げなさるが、あの、上手だったというのも癪なのであろうか、手もお触れにならない。とてもおっとりと美しくしなやかでいらっしゃる一方で、やはりしつこいところがあって、嫉妬なさっているのが、かえって愛らしい様子でお腹立ちになっていらっしゃるのを、おもしろく相手にしがいがある、とお思いになる。 |