第二章 末摘花の物語 光る源氏帰京後
2.
法華御八講
本文 |
現代語訳 |
冬になりゆくままに、いとど、かき付かむかたなく、悲しげに眺め過ごしたまふ。かの殿には、故院の御料の御八講、世の中ゆすりてしたまふ。ことに僧などは、なべてのは召さず、才すぐれ行なひにしみ、尊き限りを選らせたまひければ、この禅師の君参りたまへりけり。 帰りざまに立ち寄りたまひて、 |
冬になってゆくにつれて、ますます、すがりつくべきてだてもなく、悲しそうに物思いに沈んでお過ごしになる。あの殿におかれては、故院の御追善の御八講を、世間でも大騷ぎとなって盛大に催しなさる。特に僧侶などは、普通の僧はお召しにならず、学問の優れ修行を積んだ、高徳の僧だけをお選びあそばしたので、この禅師の君も参上なさっていた。 帰りがけにお立ち寄りになって、 |
「しかしか。権大納言殿の御八講に参りてはべるなり。いとかしこう、生ける浄土の飾りに劣らず、いかめしうおもしろきことどもの限りをなむしたまひつる。仏菩薩の変化の身にこそものしたまふめれ。五つの濁り深き世に、などて生まれたまひけむ」 |
「これこれでした。権大納言殿の御八講に参上しておったのです。たいそう立派で、この世の極楽浄土の装飾に負けず、荘厳で興趣のぜいをお尽くしになっていた。仏か菩薩の化身でいらっしゃるのだろう。五濁に深く染まっているこの世に、どうしてお生まれになったのだろう」 |
と言ひて、やがて出でたまひぬ。 言少なに、世の人に似ぬ御あはひにて、かひなき世の物語をだにえ聞こえ合はせたまはず。「さても、かばかりつたなき身のありさまを、あはれにおぼつかなくて過ぐしたまふは、心憂の仏菩薩や」と、つらうおぼゆるを、「げに、限りなめり」と、やうやう思ひなりたまふに、大弐の北の方、にはかに来たり。 |
と言って、そのまますぐにお帰りになってしまった。 言葉少なで、世間の人と違ったご兄妹どうしであって、ちょっとした世間話でさえお交わしなされない。「それにしても、このように不甲斐ない身の上を、悲しく不安なままに放ってお過ごしになるとは、辛い仏菩薩様だわ」と、辛く思われるが、「いかにも、これきりの縁なのだろう」と、だんだんお考えになっているところに、大弐の北の方が、急に来た。 |