第三章 紫の君の物語 冬の雪の夜の孤影
1.
紫の君、嫉妬す
本文 |
現代語訳 |
大臣は、あながちに思しいらるるにしもあらねど、つれなき御けしきのうれたきに、負けてやみなむも口惜しく、げにはた、人の御ありさま、世のおぼえことに、あらまほしく、ものを深く思し知り、世の人の、とあるかかるけぢめも聞き集めたまひて、昔よりもあまた経まさりて思さるれば、今さらの御あだけも、かつは世のもどきをも思しながら、 |
大臣は、やみくもにご執心というわけではないが、つれない態度が腹立たしいので、負けて終わるのも悔しく、なるほどそれは、確かにご自身の人品や、世の評判は格別で、申し分なく、物事の道理を深くわきまえ、世間の人々の、それぞれの生き方の違いも広くお知りになって、昔よりも経験を多く積んでいらっしゃるので、今さらのお浮気事も、一方では世間の非難をお分りになりながら、 |
「むなしからむは、いよいよ人笑へなるべし。いかにせむ」 |
「このまま空しく引き下がっては、ますます物笑いとなるであろう。どうしたらよいものか」 |
と、御心動きて、二条院に夜離れ重ねたまふを、女君は、たはぶれにくくのみ思す。忍びたまへど、いかがうちこぼるる折もなからむ。 |
と、お心が騒いで、二条院にお帰りにならない夜がお続きになるのを、女君は、冗談でなく恋しいとばかりお思いになる。我慢していらっしゃるが、どうして涙がこぼれる時がないであろうか。 |
「あやしく例ならぬ御けしきこそ、心得がたけれ」 |
「不思議にいつもと違ったご様子が、理解できませんね」 |
とて、御髪をかきやりつつ、いとほしと思したるさまも、絵に描かまほしき御あはひなり。 |
と言って、お髪をかき撫でながら、おいたわしいと思っていらっしゃる様子も、絵に描きたいようなお間柄である。 |
「宮亡せたまひて後、主上のいとさうざうしげにのみ世を思したるも、心苦しう見たてまつり、太政大臣もものしたまはで、見譲る人なきことしげさになむ。このほどの絶え間などを、見ならはぬことに思すらむも、ことわりに、あはれなれど、今はさりとも、心のどかに思せ。おとなびたまひためれど、まだいと思ひやりもなく、人の心も見知らぬさまにものしたまふこそ、らうたけれ」 |
「宮がお亡くなりになって後、主上がとてもお寂しそうにばかりしていらっしゃるのも、おいたわしく拝見していますし、太政大臣もいらっしゃらないので、政治を見譲る人がいない忙しさです。このごろの家に帰らないことを、今までになかったことのようにお恨みになるのも、もっともなことで、お気の毒ですが、今はいくら何でも、安心にお思いなさい。おとなのようにおなりになったようですが、まだ深いお考えもなく、わたしの心もまだお分りにならないようでいらっしゃるのが、かわいらしい」 |
など、まろがれたる御額髪、ひきつくろひたまへど、いよいよ背きてものも聞こえたまはず。 |
などと言って、涙でもつれている額髪、おつくろいになるが、ますます横を向いて何とも申し上げなさらない。 |
「いといたく若びたまへるは、誰がならはしきこえたるぞ」 |
「とてもひどく子どもっぽくしていらっしゃるのは、誰がおしつけ申したことでしょう」 |
とて、「常なき世に、かくまで心置かるるもあぢきなのわざや」と、かつはうち眺めたまふ。 |
と言って、「無常の世に、こうまで隔てられるのもつまらないことだ」と、一方では物思いに耽っていらっしゃる。 |
「斎院にはかなしごと聞こゆるや、もし思しひがむる方ある。それは、いともて離れたることぞよ。おのづから見たまひてむ。昔よりこよなうけどほき御心ばへなるを、さうざうしき折々、ただならで聞こえ悩ますに、かしこもつれづれにものしたまふ所なれば、たまさかの応へなどしたまへど、まめまめしきさまにもあらぬを、かくなむあるとしも、愁へきこゆべきことにやは。うしろめたうはあらじとを、思ひ直したまへ」 |
「斎院にとりとめのない文を差し上げたのを、もしや誤解なさっていることがありませんか。それは、大変な見当違いのことですよ。自然とお分かりになるでしょう。昔からまったくよそよそしいお気持ちなので、もの寂しい時々に、恋文めいたものを差し上げて困らせたところ、あちらも所在なくお過ごしのところなので、まれに返事などなさるが、本気ではないので、こういうことですと、不平をこぼさなければならないようなことでしょうか。不安なことは何もあるまいと、お思い直しなさい」 |
など、日一日慰めきこえたまふ。 |
などと、一日中お慰め申し上げなさる。 |