第五章 夕霧の物語 幼恋の物語
5. 乳母、夕霧の六位を蔑む
本文 |
現代語訳 |
御殿油参り、殿まかでたまふけはひ、こちたく追ひののしる御前駆の声に、人びと、 「そそや」 など懼ぢ騒げば、いと恐ろしと思してわななきたまふ。さも騒がればと、ひたぶる心に、許しきこえたまはず。御乳母参りてもとめたてまつるに、けしきを見て、 |
御殿油をお点けし、内大臣が宮中から退出なさって来た様子で、物々しく大声を上げて先払いする声に、女房たちが、 「それそれ、お帰りだ」 などと慌てるので、とても恐ろしくお思いになって震えていらっしゃる。そんなにやかましく言われるなら言われても構わないと、一途な心で、姫君をお放し申されない。姫君の乳母が参ってお捜し申して、その様子を見て、 |
「あな、心づきなや。げに、宮知らせたまはぬことにはあらざりけり」 |
「まあ、いやだわ。なるほど、大宮は御存知ないことではなかったのだわ」 |
と思ふに、いとつらく、 |
と思うと、実に恨めしくなって、 |
「いでや、憂かりける世かな。殿の思しのたまふことは、さらにも聞こえず、大納言殿にもいかに聞かせたまはむ。めでたくとも、もののはじめの六位宿世よ」 |
「何とも、情けないことですわ。内大臣殿がおっしゃることは、申すまでもなく、大納言殿にもどのようにお聞きになることでしょう。結構な方であっても、初婚の相手が六位風情との御縁では」 |
と、つぶやくもほの聞こゆ。ただこの屏風のうしろに尋ね来て、嘆くなりけり。 |
と、つぶやいているのがかすかに聞こえる。ちょうどこの屏風のすぐ背後に捜しに来て、嘆くのであった。 |
男君、「我をば位なしとて、はしたなむるなりけり」と思すに、世の中恨めしければ、あはれもすこしさむる心地して、めざまし。 |
男君は、「自分のことを位がないと軽蔑しているのだ」とお思いになると、こんな二人の仲がたまらなくなって、愛情も少しさめる感じがして、許しがたい。 |
「かれ聞きたまへ。 くれなゐの涙に深き袖の色を 浅緑にや言ひしをるべき 恥づかし」 |
「あれをお聞きなさい。 真っ赤な血の涙を流して恋い慕っているわたしを 浅緑の袖の色だと言ってけなしてよいものでしょうか 恥ずかしい」 |
とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
「いろいろに身の憂きほどの知らるるは いかに染めける中の衣ぞ」 |
「色々とわが身の不運が思い知らされますのは どのような因縁の二人なのでしょう」 |
と、物のたまひ果てぬに、殿入りたまへば、わりなくて渡りたまひぬ。 |
と、言い終わらないうちに、殿がお入りになっていらしたので、しかたなくお戻りになった。 |
男君は、立ちとまりたる心地も、いと人悪く、胸ふたがりて、わが御方に臥したまひぬ。 |
男君は、後に残された気持ちも、とても体裁が悪く、胸が一杯になって、ご自分のお部屋で横におなりになった。 |
御車三つばかりにて、忍びやかに急ぎ出でたまふけはひを聞くも、静心なければ、宮の御前より、「参りたまへ」とあれど、寝たるやうにて動きもしたまはず。 涙のみ止まらねば、嘆きあかして、霜のいと白きに急ぎ出でたまふ。うちはれたるまみも、人に見えむが恥づかしきに、宮はた、召しまつはすべかめれば、心やすき所にとて、急ぎ出でたまふなりけり。 道のほど、人やりならず、心細く思ひ続くるに、空のけしきもいたう雲りて、まだ暗かりけり。 |
お車は三輌ほどで、ひっそりと急いでお出になる様子を聞くのも、落ち着かないので、大宮の御前から「いらっしゃい」とあるが、寝ている様子をして身動きもなさらない。 涙ばかりが止まらないので、嘆きながら夜を明かして、霜がたいそう白いころに急いでお帰りになる。泣き腫らした目許も、人に見られるのが恥ずかしいので、大宮もまた、お召しになって放さないだろうから、気楽な所でと思って、急いでお帰りになったのであった。 その道中は、誰のせいからでなく、心細く思い続けると、空の様子までもたいそう曇って、まだ暗いのであった。 |
「霜氷うたてむすべる明けぐれの 空かきくらし降る涙かな」 |
「霜や氷が嫌に張り詰めた明け方の 空を真暗にして降る涙の雨だなあ」 |