第三章 夕霧の物語 幼恋の物語
1. 夕霧、雲井雁に手紙を書く
本文 |
現代語訳 |
むつかしき方々めぐりたまふ御供に歩きて、中将は、なま心やましう、書かまほしき文など、日たけぬるを思ひつつ、姫君の御方に参りたまへり。 |
気疲れのする方々をお回りになるお供をして歩いて、中将は、何となく気持ちが晴れず、書きたい手紙など、日が高くなってしまうのを心配しながら、姫君のお部屋に参上なさった。 |
「まだあなたになむおはします。風に懼ぢさせたまひて、今朝はえ起き上がりたまはざりつる」 |
「まだあちらにおいであそばします。風をお恐がりあそばして、今朝はお起きになれませんでしたこと」 |
と、御乳母ぞ聞こゆる。 |
と、御乳母が申し上げる。 |
「もの騒がしげなりしかば、宿直も仕うまつらむと思ひたまへしを、宮の、いとも心苦しう思いたりしかばなむ。雛の殿は、いかがおはすらむ」 |
「ひどい荒れようでしたから、宿直しようと存じましたが、宮が、たいそう恐がっていらっしゃったものですから。お雛様の御殿は、いかがでいらっしゃいましたか」 |
と問ひたまへば、人びと笑ひて、 |
とお尋ねになると、女房たちは笑って、 |
「扇の風だに参れば、いみじきことに思いたるを、ほとほとしくこそ吹き乱りはべりしか。この御殿あつかひに、わびにてはべり」など語る。 |
「扇の風でさえ吹けば、たいへんなことにお思いになっているのを、危うく吹き壊されるところでございました。この御殿のお世話に、困りっております」などと話す。 |
「ことことしからぬ紙やはべる。御局の硯」 |
「大げさでない紙はありませんか。お局の硯を」 |
と乞ひたまへば、御厨子に寄りて、紙一巻、御硯の蓋に取りおろしてたてまつれば、 |
とお求めになると、御厨子に近寄って、紙一巻を、御硯箱の蓋に載せて差し上げたので、 |
「いな、これはかたはらいたし」 |
「いや、これは恐れ多い」 |
とのたまへど、北の御殿のおぼえを思ふに、すこしなのめなる心地して、文書きたまふ。 |
とおっしゃるが、北の御殿の世評を考えれば、そう気をつかうほどでもない気がして、手紙をお書きになる。 |
紫の薄様なりけり。墨、心とめておしすり、筆の先うち見つつ、こまやかに書きやすらひたまへる、いとよし。されど、あやしく定まりて、憎き口つきこそものしたまへ。 |
紫の薄様の紙であった。墨は、ていねいにすって、筆先を見い見いして、念を入れて書きながら筆を休めていらっしゃるのが、とても素晴らしい。けれども、妙に型にはまって、感心しない詠みぶりでいらっしゃった。 |
「風騒ぎむら雲まがふ夕べにも 忘るる間なく忘られぬ君」 |
「風が騒いでむら雲が乱れる夕べにも 片時の間もなく忘れることのできないあなたです」 |
吹き乱れたる苅萱につけたまへれば、人びと、 |
風に吹き乱れた刈萱にお付けになったので、女房たちは、 |
「交野の少将は、紙の色にこそととのへはべりけれ」と聞こゆ。 |
「交野の少将は、紙の色と同じ色の物に揃えましたよ」と申し上げる。 |
「さばかりの色も思ひ分かざりけりや。いづこの野辺のほとりの花」 |
「それくらいの色も考えつかなかったな。どこの野の花を付けようか」 |
など、かやうの人びとにも、言少なに見えて、心解くべくももてなさず、いとすくすくしう気高し。 |
などと、このような女房たちにも、言葉少なに応対して、気を許すふうもなく、とてもきまじめで気品がある。 |
またも書いたまうて、馬の助に賜へれば、をかしき童、またいと馴れたる御随身などに、うちささめきて取らするを、若き人びと、ただならずゆかしがる。 |
もう一通お書きになって、右馬助にお渡しになったので、美しい童や、またたいそう心得ている御随身などに、ひそひそとささやいて渡すのを、若い女房たちは、ひどく知りたがっている。 |