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真木柱

第二章 鬚黒大将家の物語 北の方、乱心騒動    

5. 北の方、鬚黒に香炉の灰を浴びせ掛ける     

 

本文

現代語訳

 御火取り召して、いよいよ焚きしめさせたてまつりたまふ。みづからは、萎えたる御衣ども、うちとけたる御姿、いとど細う、か弱げなり。しめりておはする、いと心苦し。御目のいたう泣き腫れたるぞ、すこしものしけれど、いとあはれと見る時は、罪なう思して、

 御香炉を取り寄せて、ますます香をたきしめさせてお上げになる。自分自身は、皺になったお召物類で、身なりを構わないお姿が、ますますほっそりとか弱げである。沈んでいらっしゃるのは、たいそうお気の毒である。お目をたいそう泣き腫らしているのは、少し疎ましいが、しみじみといとおしいと見る時は、咎める気もお消えになって、

 「いかで過ぐしつる年月ぞ」と、「名残なう移ろふ心のいと軽きぞや」とは思ふ思ふ、なほ心懸想は進みて、そら嘆きをうちしつつ、なほ装束したまひて、小さき火取り取り寄せて、袖に引き入れてしめゐたまへり。

 「どうして今まで疎遠にしてきたのか」と、「すっかり心変わりした自分が何とも軽薄だ」とは思いながらも、やはり気持ちははやって、溜息をつきながら、やはりお召物を整えなさって、小さい香炉を取り寄せて、袖に入れてたきしめていらっしゃった。

 なつかしきほどに萎えたる御装束に、容貌も、かの並びなき御光にこそ圧さるれど、いとあざやかに男々しきさまして、ただ人と見えず、心恥づかしげなり。

 やさしいほどに着馴れたお召物で、器量も、あの並ぶ人のないお方には圧倒されるが、たいそうすっきりした男性らしい感じで、普通の人とは見えず、気おくれするほど立派である。

 侍に、人びと声して、

 侍所で、供人たちが声立てて、

 「雪すこし隙あり。夜は更けぬらむかし」

 「雪が小止みです。夜が更けてしまいましょう」

 など、さすがにまほにはあらで、そそのかしきこえて、声づくりあへり。

 などと、それでもあらわには言わないで、お促し申して、咳払いをし合っている。

 中将、木工など、「あはれの世や」などうち嘆きつつ、語らひて臥したるに、正身は、いみじう思ひしづめて、らうたげに寄り臥したまへり、と見るほどに、にはかに起き上がりて、大きなる籠の下なりつる火取りを取り寄せて、殿の後ろに寄りて、さと沃かけたまふほど、人のややみあふるほどもなう、あさましきに、あきれてものしたまふ。

 中将の君や、木工の君などは、「おいたわしいことだわ」などと嘆きながら、話し合って臥しているが、ご本人は、ひどく落ち着いていじらしく寄りかかっていらっしゃる、と見るうちに、急に起き上がって、大きな籠の下にあった香炉を取り寄せて、殿の後ろに近寄って、さっと浴びせかけなさる間、人の制止する間もなく、不意のことなので、呆然としていらっしゃる。

 さるこまかなる灰の、目鼻にも入りて、おぼほれてものもおぼえず。払ひ捨てたまへど、立ち満ちたれば、御衣ども脱ぎたまひつ。

 あのような細かい灰が、目や鼻にも入って、ぼうっとして何も分からない。払い除けなさるが、立ちこめているので、お召物をお脱ぎになった。

 うつし心にてかくしたまふぞと思はば、またかへりみすべくもあらずあさましけれど、

 正気でこのようなことをなさると思ったら、二度と見向く気にもなれず驚くほかないが、

 「例の御もののけの、人に疎ませむとするわざ」

 「例の物の怪が、人から嫌われる様にしようとしていることだ」

 と、御前なる人びとも、いとほしう見たてまつる。

 と、お側の女房たちもお気の毒に拝し上げる。

 立ち騷ぎて、御衣どもたてまつり替へなどすれど、そこらの灰の、鬢のわたりにも立ちのぼり、よろづの所に満ちたる心地すれば、きよらを尽くしたまふわたりに、さながら参うでたまふべきにもあらず。

 大騒ぎになって、お召物をお召し替えなどするが、たくさんの灰が鬢のあたりにも舞い上がり、すべての所にいっぱいの気がするので、善美を尽くしていらっしゃる所に、このまま参上なさることはできない。

 「心違ひとはいひながら、なほめづらしう、見知らぬ人の御ありさまなりや」と爪弾きせられ、疎ましうなりて、あはれと思ひつる心も残らねど、「このころ、荒立てては、いみじきこと出で来なむ」と思ししづめて、夜中になりぬれど、僧など召して、加持参り騒ぐ。呼ばひののしりたまふ声など、思ひ疎みたまはむにことわりなり。

 「気が違っているとはいっても、やはり珍しい、見たこともないご様子だ」と愛想も尽き、疎ましくなって、いとしいと思っていた気持ちも消え失せたが、「今、事を荒立てたら、大変なことになるだろう」と心を鎮めて、夜中になったが、僧などを呼んで、加持をさせる騷ぎとなる。わめき叫んでいらっしゃる声など、お嫌いになるのもごもっともである。



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