第三章 鬚黒大将家の物語 北の方、子供たちを連れて実家に帰る
3. 姫君、柱の隙間に和歌を残す
本文 |
現代語訳 |
日も暮れ、雪降りぬべき空のけしきも、心細う見ゆる夕べなり。 |
日も暮れ、雪も降って来そうな空模様も、心細く見える夕方である。 |
「いたう荒れはべりなむ。早う」 |
「ひどく荒れて来ましょう。お早く」 |
と、御迎への君達そそのかしきこえて、御目おし拭ひつつ眺めおはす。姫君は、殿いとかなしうしたてまつりたまふならひに、 |
と、お迎えの公達はお促し申し上げるが、お目を拭いながら物思いに沈んでいらっしゃる。姫君は、殿がたいそうかわいがって、懐いていらっしゃっるので、 |
「見たてまつらではいかでかあらむ。『今』なども聞こえで、また会ひ見ぬやうもこそあれ」 |
「お目にかからないではどうして行けようか。『これで』などと挨拶しないで、再び会えないことになるかもしれない」 |
と思ほすに、うつぶし伏して、「え渡るまじ」と思ほしたるを、 |
とお思いになると、突っ伏して、「とても出かけられない」とお思いでいるのを、 |
「かく思したるなむ、いと心憂き」 |
「そのようなお考えでいらっしゃるとは、とても情けない」 |
など、こしらへきこえたまふ。「ただ今も渡りたまはなむ」と、待ちきこえたまへど、かく暮れなむに、まさに動きたまひなむや。 |
などと、おなだめ申し上げなさる。「今すぐにも、お父様がお帰りになってほしい」とお待ち申し上げなさるが、このように日が暮れようとする時、あちらをお動きなさろうか。 |
常に寄りゐたまふ東面の柱を、人に譲る心地したまふもあはれにて、姫君、桧皮色の紙の重ね、ただいささかに書きて、柱の干割れたるはさまに、笄の先して押し入れたまふ。 |
いつも寄りかかっていらっしゃる東面の柱を、他人に譲る気がなさるのも悲しくて、姫君、桧皮色の紙を重ねたのに、ほんのちょっと書いて、柱のひび割れた隙間に、笄の先でお差し込みなさる。 |
「今はとて宿かれぬとも馴れ来つる 真木の柱はわれを忘るな」 |
「今はもうこの家を離れて行きますが、わたしが馴れ親しんだ 真木の柱はわたしを忘れないでね」 |
えも書きやらで泣きたまふ。母君、「いでや」とて、 |
最後まで書き終わることもできずお泣きになる。母君、「いえ、なんの」と言って、 |
「馴れきとは思ひ出づとも何により 立ちとまるべき真木の柱ぞ」 |
「長年馴れ親しんで来た真木柱だと思い出しても どうしてここに止まっていられましょうか」 |
御前なる人びとも、さまざまに悲しく、「さしも思はぬ木草のもとさへ恋しからむこと」と、目とどめて、鼻すすりあへり。 |
お側に仕える女房たちも、それぞれに悲しく、「それほどまで思わなかった木や草のことまで、恋しいことでしょう」と、目を止めて、鼻水をすすり合っていた。 |
木工の君は、殿の御方の人にてとどまるに、中将の御許、 |
木工の君は、殿の女房として留まるので、中将の御許は、 |
「浅けれど石間の水は澄み果てて 宿もる君やかけ離るべき |
「浅い関係のあなたが残って、邸を守るはずの北の方様が 出て行かれることがあってよいものでしょうか |
思ひかけざりしことなり。かくて別れたてまつらむことよ」 |
思いもしなかったことです。こうしてお別れ申すとは」 |
と言へば、木工、 |
と言うと、木工の君は、 |
「ともかくも岩間の水の結ぼほれ かけとむべくも思ほえぬ世を いでや」 |
「どのように言われても、わたしの心は悲しみに閉ざされて いつまでここに居られますことやら いや、そのような」 |
とてうち泣く。 |
と言って泣く。 |
御車引き出でて返り見るも、「またはいかでかは見む」と、はかなき心地す。梢をも目とどめて、隠るるまでぞ返り見たまひける。君が住むゆゑにはあらで、ここら年経たまへる御住みかの、いかでか偲びどころなくはあらむ。 |
お車を引き出して振り返って見るのも、「再び見ることができようか」と、心細い気がする。梢にも目を止めて、見えなくなるまで振り返って御覧になるのであった。君が住んでいるからではなく、長年お住まいになった所が、どうして名残惜しくないことがあろうか。 |