第一章 柏木の物語 女三の宮の結婚後
1. 六条院の競射
本文 |
現代語訳 |
ことわりとは思へども、 |
もっともだとは思うけれども、 |
「うれたくも言へるかな。いでや、なぞ、かく異なることなきあへしらひばかりを慰めにては、いかが過ぐさむ。かかる人伝てならで、一言をものたまひ聞こゆる世ありなむや」 |
「いまいましい言い方だな。いや、しかし、なんでこのような通り一遍の返事だけを慰めとしては、どうして過ごせようか。このような人を介してではなく、一言でも直接おっしゃってくださり、また申し上げたりする時があるだろうか」 |
と思ふにつけて、おほかたにては、惜しくめでたしと思ひきこゆる院の御ため、なまゆがむ心や添ひにたらむ。 |
と思うにつけても、普通の関係では、もったいなく立派な方だとお思い申し上げる院の御為には、けしからぬ心が生じたのであろうか。 |
晦日の日は、人びとあまた参りたまへり。なまもの憂く、すずろはしけれど、「そのあたりの花の色をも見てや慰む」と思ひて参りたまふ。 |
晦日には、人々が大勢参上なさった。何やら気が進まず、落ち着かないけれども、「あのお方のいらっしゃる辺りの桜の花を見れば気持ちが慰むだろうか」と思って参上なさる。 |
殿上の賭弓、如月にとありしを過ぎて、三月はた御忌月なれば、口惜しくと人びと思ふに、この院に、かかるまとゐあるべしと聞き伝へて、例の集ひたまふ。左右の大将、さる御仲らひにて参りたまへば、次将たちなど挑みかはして、小弓とのたまひしかど、歩弓のすぐれたる上手どもありければ、召し出でて射させたまふ。 |
殿上の賭弓は、二月とあったが過ぎて、三月もまた御忌月なので、残念に人々は思っているところに、この院で、このような集まりがある予定と伝え聞いて、いつものようにお集まりになる。左右の大将は、お身内という間柄で参上なさるので、中将たちなども互いに競争しあって、小弓とおっしゃったが、歩弓の勝れた名人たちもいたので、お呼び出しになって射させなさる。 |
殿上人どもも、つきづきしき限りは、皆前後の心、こまどりに方分きて、暮れゆくままに、今日にとぢむる霞のけしきもあわたたしく、乱るる夕風に、花の蔭いとど立つことやすからで、人びといたく酔ひ過ぎたまひて、 |
殿上人たちも、相応しい人は、すべて前方と後方との、交互に組分けをして、日が暮れてゆくにつれて、今日が最後の春の霞の感じも気ぜわしくて、吹き乱れる夕風に、花の蔭はますます立ち去りにくく、人々はひどく酔い過ごしなさって、 |
「艶なる賭物ども、こなたかなた人びとの御心見えぬべきを。柳の葉を百度当てつべき舎人どもの、うけばりて射取る、無人なりや。すこしここしき手つきどもをこそ、挑ませめ」 |
「しゃれた賭物の数々は、あちらこちらの御婦人方のご趣味のほどが窺えようというものを。柳の葉を百発百中できそうな舎人たちが、わがもの顔をして射取るのは、面白くないことだ。少しおっとりした手並みの人たちこそ、競争させよう」 |
とて、大将たちよりはじめて、下りたまふに、衛門督、人よりけに眺めをしつつものしたまへば、かの片端心知れる御目には、見つけつつ、 |
といって、大将たちをはじめとして、お下りになると、衛門督、他の人より目立って物思いに耽っていらっしゃるので、あの少々は事情をご存知の方のお目には止まって、 |
「なほ、いとけしき異なり。わづらはしきこと出で来べき世にやあらむ」 |
「やはり、様子が変だ。厄介な事が引き起こるのだろうか」 |
と、われさへ思ひつきぬる心地す。この君たち、御仲いとよし。さる仲らひといふ中にも、心交はしてねむごろなれば、はかなきことにても、もの思はしくうち紛るることあらむを、いとほしくおぼえたまふ。 |
と、自分までが悩みに取りつかれたような心地がする。この君たち、お仲が大変に良い。従兄弟同士という中でも、気心が通じ合って親密なので、ちょっとした事でも、物思いに悩んで屈託しているところがあろうものなら、お気の毒にお思いになる。 |
みづからも、大殿を見たてまつるに、気恐ろしくまばゆく、 |
自分でも、大殿を拝見すると、何やら恐ろしく目を伏せたくなるようで、 |
「かかる心はあるべきものか。なのめならむにてだに、けしからず、人に点つかるべき振る舞ひはせじと思ふものを。ましておほけなきこと」 |
「このような考えを持ってよいものだろうか。どうでもよいことでさえ、不行き届きで、人から非難されるような振る舞いはすまいと思うものを。まして身のほどを弁えぬ大それたことを」 |
と思ひわびては、 |
と思い悩んだ末に、 |
「かのありし猫をだに、得てしがな。思ふこと語らふべくはあらねど、かたはら寂しき慰めにも、なつけむ」 |
「あの先日の猫でも、せめて手に入れたい。思い悩んでいる気持ちを打ち明ける相手にはできないが、独り寝の寂しい慰めを紛らすよすがにも、手なづけてみよう」 |
と思ふに、もの狂ほしく、「いかでかは盗み出でむ」と、それさへぞ難きことなりける。 |
と思うと、気違いじみて、「どうしたら盗み出せようか」と思うが、それさえ難しいことだったのである。 |