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若菜下

第七章 柏木の物語 女三の宮密通の物語    

7. きぬぎぬの別れ    

 

本文

現代語訳

 明けゆくけしきなるに、出でむ方なく、なかなかなり。

 夜が明けてゆく様子であるが、帰って行く気にもなれず、かえって逢わないほうがましであったほどである。

 「いかがはしはべるべき。いみじく憎ませたまへば、また聞こえさせむこともありがたきを、ただ一言御声を聞かせたまへ」

 「いったい、どうしたらよいのでしょう。ひどくお憎みになっていらっしゃるので、再びお話し申し上げることも難しいでしょうが、ただ一言だけでもお声をお聞かせ下さい」

 と、よろづに聞こえ悩ますも、うるさくわびしくて、もののさらに言はれたまはねば、

 と、さまざまに申し上げて困らせるのも、煩わしく情けなくて、何もまったくおしゃれないので、

 「果て果ては、むくつけくこそなりはべりぬれ。また、かかるやうはあらじ」

 「しまいには、薄気味悪くさえなってしまいました。他に、このような例はありますまい」

 と、いと憂しと思ひきこえて、

 と、まことに辛いとお思い申し上げて、

 「さらば不用なめり。身をいたづらにやはなし果てぬ。いと捨てがたきによりてこそ、かくまでもはべれ。今宵に限りはべりなむもいみじくなむ。つゆにても御心ゆるしたまふさまならば、それに代へつるにても捨てはべりなまし」

 「それでは生きていても無用のようですね。いっそ死んでしまいましょう。生きていたいからこそ、こうしてお逢いもしたのです。今晩限りの命と思うとたいそう辛うございます。少しでもお心を開いて下さるならば、それを引き換えにして命を捨てもしましょうが」

 とて、かき抱きて出づるに、果てはいかにしつるぞと、あきれて思さる。

 と言って、抱いて外へ出るので、しまいにはどうするのだろうと、呆然としていらっしゃる。

 隅の間の屏風をひき広げて、戸を押し開けたれば、渡殿の南の戸の、昨夜入りしがまだ開きながらあるに、まだ明けぐれのほどなるべし、ほのかに見たてまつらむの心あれば、格子をやをら引き上げて、

 隅の間の屏風を広げて、妻戸を押し開けると、渡殿の南の戸の、昨夜入った所がまだ開いたままになっているが、まだ夜明け前の暗いころなのであろう、ちらっと拝見しようとの気があるので、格子を静かに引き上げて、

 「かう、いとつらき御心に、うつし心も失せはべりぬ。すこし思ひのどめよと思されば、あはれとだにのたまはせよ」

 「このように、まことに辛い無情なお仕打ちなので、正気も消え失せてしまいました。少しでも気持ちを落ち着けるようにとお思いならば、せめて一言かわいそうにとおっしゃって下さい」

 と、脅しきこゆるを、いとめづらかなりと思して物も言はむとしたまへど、わななかれて、いと若々しき御さまなり。

 と、脅して申し上げると、とんでもないとお思いになって、何かおっしゃろうとなさったが、震えるばかりで、ほんとうに子供っぽいご様子である。

 ただ明けに明けゆくに、いと心あわたたしくて、

 ただ夜が明けて行くので、とても気が急かれて、

 「あはれなる夢語りも聞こえさすべきを、かく憎ませたまへばこそ。さりとも、今思し合はすることもはべりなむ」

 「しみじみとした夢語りも申し上げたいのですが、このようにお憎みになっていらっしゃるので。そうは言っても、やがてお思い当たりなさることもございましょう」

 とて、のどかならず立ち出づる明けぐれ、秋の空よりも心尽くしなり。

 と言って、気ぜわしく出て行く明けぐれ、秋の空よりも物思いをさせるのである。

 「起きてゆく空も知られぬ明けぐれに

   いづくの露のかかる袖なり」

 「起きて帰って行く先も分からない明けぐれに

   どこから露がかかって袖が濡れるのでしょう」

 と、ひき出でて愁へきこゆれば、出でなむとするに、すこし慰めたまひて、

 と、袖を引き出して訴え申し上げるので、帰って行くのだろうと、少しほっとなさって、

 「明けぐれの空に憂き身は消えななむ

   夢なりけりと見てもやむべく」

 「明けぐれの空にこの身は消えてしまいたいものです

   夢であったと思って済まされるように」

 と、はかなげにのたまふ声の、若くをかしげなるを、聞きさすやうにて出でぬる魂は、まことに身を離れて止まりぬる心地す。

 と、力弱くおっしゃる声が、若々しくかわいらしいのを、聞きも果てないようにして出てしまった魂は、ほんとうに身を離れて後に残った気がする。



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