第二章 夕霧の物語 柏木遺愛の笛
2. 柏木遺愛の琴を弾く
本文 |
現代語訳 |
和琴を引き寄せたまへれば、律に調べられて、いとよく弾きならしたる、人香にしみて、なつかしうおぼゆ。 |
和琴をお引き寄せになると、律の調子に調えられていて、とてもよく弾きこんであるのが、人の移り香がしみこんでいて、心惹かれる感じがする。 |
「かやうなるあたりに、思ひのままなる好き心ある人は、静むることなくて、さま悪しきけはひをもあらはし、さるまじき名をも立つるぞかし」 |
「このようなところに、慎みのない好き心のある人は、心を抑えることができなくて、見苦しい振る舞いにでも出て、あってはならない評判を立てるものだ」 |
など、思ひ続けつつ、掻き鳴らしたまふ。 |
などと、思い続けながら、お弾きになる。 |
故君の常に弾きたまひし琴なりけり。をかしき手一つなど、すこし弾きたまひて、 |
故君がいつもお弾きになっていた琴であった。風情のある曲目を一つ二つ、少しお弾きになって、 |
「あはれ、いとめづらかなる音に掻き鳴らしたまひしはや。この御琴にも籠もりてはべらむかし。承りあらはしてしがな」 |
「ああ、まことにめったにない素晴らしい音色をお弾きになったものだがな。このお琴にも故人の名残が籠もっておりましょう。お聞かせ願いたいものだ」 |
とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
「琴の緒絶えにし後より、昔の御童遊びの名残をだに、思ひ出でたまはずなむなりにてはべめる。院の御前にて、女宮たちのとりどりの御琴ども、試みきこえたまひしにも、かやうの方は、おぼめかしからずものしたまふとなむ、定めきこえたまふめりしを、あらぬさまにほれぼれしうなりて、眺め過ぐしたまふめれば、世の憂きつまにといふやうになむ見たまふる」 |
「主人が亡くなりまして後より、昔の子供遊びの時の記憶さえ、思い出しなさらなくなってしまったようです。院の御前で、女宮たちがそれぞれ得意なお琴を、お試し申されました時にも、このような方面は、しっかりしていらっしゃると、ご判定申されなさったようでしたが、今は別人のようにぼんやりなさって、物思いに沈んでいらっしゃるようなので、悲しい思いを催す種というように拝見しております」 |
と聞こえたまへば、 |
とお答え申し上げなさると、 |
「いとことわりの御思ひなりや。限りだにある」 |
「まことに御尤もなお気持ちです。せめて終わりがあれば」 |
と、うち眺めて、琴は押しやりたまへれば、 |
と、物思いに沈んで、琴は押しやりなさったので、 |
「かれ、なほさらば、声に伝はることもやと、聞きわくばかり鳴らさせたまへ。ものむつかしう思うたまへ沈める耳をだに、明きらめはべらむ」 |
「あの琴を、やはりそういうことなら、音色の中に伝わることもあろうかと、聞いて分かるように弾いて下さい。何やら気も晴れずに物思いに沈み込んでいる耳だけでも、せめてさっぱりさせましょう」 |
と聞こえたまふを、 |
と申し上げなさるので、 |
「しか伝はる中の緒は、異にこそははべらめ。それをこそ承らむとは聞こえつれ」 |
「ご夫婦の仲に伝わる琴の音色は、特別でございましょう。それを伺いたいと申し上げているのです」 |
とて、御簾のもと近く押し寄せたまへど、とみにしも受けひきたまふまじきことなれば、しひても聞こえたまはず。 |
とおっしゃって、御簾の側近くに和琴を押し寄せなさるが、すぐにはお引き受けなさるはずもないことなので、無理にお願いなさらない。 |