第一章 夕霧の物語 小野山荘訪問
7. 迫りながらも明け方近くなる
本文 |
現代語訳 |
風いと心細う、更けゆく夜のけしき、虫の音も、鹿の鳴く音も、滝の音も、一つに乱れて、艶あるほどなれど、ただありのあはつけ人だに、寝覚めしぬべき空のけしきを、格子もさながら、入り方の月の山の端近きほど、とどめがたう、ものあはれなり。 |
風がとても心細い感じで、更けて行く夜の様子、虫の音も、鹿の声も、滝の音も、一つに入り乱れて、風情をそそるころなので、まるで情趣など解さない軽薄な人でさえ、寝覚めするに違いない空の様子を、格子もそのまま、入方の月が山の端に近くなったころ、涙を堪え切れないほど、ものあわれである。 |
「なほ、かう思し知らぬ御ありさまこそ、かへりては浅う御心のほど知らるれ。かう世づかぬまでしれじれしきうしろやすさなども、たぐひあらじとおぼえはべるを、何事にもかやすきほどの人こそ、かかるをば痴者などうち笑ひて、つれなき心もつかふなれ。 |
「やはり、このようにお分かりになって頂けないご様子は、かえって浅薄なお心底と思われます。このような世間知らずなまで愚かしく心配のいらないところなども、他にいないだろうと思われますが、どのようなことでも手軽にできる身分の人は、このような振る舞いを愚か者だと笑って、同情のない心をするものです。 |
あまりこよなく思し貶したるに、えなむ静め果つまじき心地しはべる。世の中をむげに思し知らぬにしもあらじを」 |
あまりにひどくお蔑みなさるので、もう抑えてはいられないような気が致します。男女の仲というものを全くご存知ないわけではありますまいに」 |
と、よろづに聞こえせめられたまひて、いかが言ふべきと、わびしう思しめぐらす。 |
と、いろいろと言い迫られなさって、どのようにお答えしたらよいものかと、困り切って思案なさる。 |
世を知りたる方の心やすきやうに、折々ほのめかすも、めざましう、「げに、たぐひなき身の憂さなりや」と、思し続けたまふに、死ぬべくおぼえたまうて、 |
結婚した経験があるから気安いように、時々口にされるのも、不愉快で、「なるほど、又とない身の不運だわ」と、お思い続けていらっしゃると、死んでしまいそうに思われなさって、 |
「憂きみづからの罪を思ひ知るとても、いとかうあさましきを、いかやうに思ひなすべきにかはあらむ」 |
「情けない我が身の過ちを知ったとしても、とてもこのようなひどい有様を、どのように考えたらよいものでしょうか」 |
と、いとほのかに、あはれげに泣いたまうて、 |
と、とてもかすかに、悲しそうにお泣きになって、 |
「我のみや憂き世を知れるためしにて 濡れそふ袖の名を朽たすべき」 |
「わたしだけが不幸な結婚をした女の例として さらに涙の袖を濡らして悪い評判を受けなければならないのでしょうか」 |
とのたまふともなきを、わが心に続けて、忍びやかにうち誦じたまへるも、かたはらいたく、いかに言ひつることぞと、思さるるに、 |
とおっしゃるともないのに、わが気持ちのままに、ひっそりとお口ずさみなさるのも、いたたまれない思いで、どうして歌など詠んだのだろうと、悔やまずいらっしゃれないでいると、 |
「げに、悪しう聞こえつかし」 |
「おっしゃるとおり、悪い事を申しましたね」 |
など、ほほ笑みたまへるけしきにて、 |
などと、微笑んでいらっしゃるご様子で、 |
「おほかたは我濡衣を着せずとも 朽ちにし袖の名やは隠るる |
「だいたいがわたしがあなたに悲しい思いをさせなくても 既に立ってしまった悪い評判はもう隠れるものではありません |
ひたぶるに思しなりねかし」 |
一途にお心向け下さい」 |
とて、月明き方に誘ひきこゆるも、あさまし、と思す。心強うもてなしたまへど、はかなう引き寄せたてまつりて、 |
と言って、月の明るい方にお誘い申し上げるのも、心外な、とお思いになる。気強く応対なさるが、たやすくお引き寄せ申して、 |
「かばかりたぐひなき心ざしを御覧じ知りて、心やすうもてなしたまへ。御許しあらでは、さらに、さらに」 |
「これほど例のない厚い愛情をお分かり下さって、お気を楽になさって下さい。お許しがなくては、けっして、けっして」 |
と、いとけざやかに聞こえたまふほど、明け方近うなりにけり。 |
と、たいそうはっきりと申し上げなさっているうちに、明け方近くなってしまった。 |