第六章 夕霧の物語 雲居雁と落葉宮の間に苦慮
5. 夕霧、塗籠に入って行く
本文 |
現代語訳 |
「さりとて、かくのみやは。人の聞き漏らさむこともことわり」と、はしたなう、ここの人目もおぼえたまへば、 |
「そうかといって、こうしてばかりいられようか。人が洩れ聞くことも当然だ」と、きまり悪く、こちらの人目も気にかかりなさるので、 |
「うちうちの御心づかひは、こののたまふさまにかなひても、しばしは情けばまむ。世づかぬありさまの、いとうたてあり。また、かかりとて、ひき絶え参らずは、人の御名いかがはいとほしかるべき。ひとへにものを思して、幼げなるこそいとほしけれ」 |
「内々のお気づかいは、このおっしゃることに適っても、暫くの間はお気持ちに逆らわないでいよう。夫婦らしからぬ様子が、とても嫌である。また、こうだからといって、まったく参らなくなったら、あなたのご評判がどんなにかおいたわしいことでしょうか。一方的にお考えになって、大人げないのが困ったことです」 |
など、この人を責めたまへば、げにと思ひ、見たてまつるも今は心苦しう、かたじけなうおぼゆるさまなれば、人通はしたまふ塗籠の北の口より、入れたてまつりてけり。 |
など、この女房をお責めになるので、なるほどと思って、拝するのも今はお気の毒になって、恐れ多くも思われる様子なので、女房を出入りさせなさる塗籠の北の口から、お入れ申し上げてしまった。 |
いみじうあさましうつらしと、さぶらふ人をも、げにかかる世の人の心なれば、これよりまさる目をも見せつべかりけりと、頼もしき人もなくなり果てたまひぬる御身を、かへすがへす悲しう思す。 |
ひどく驚いて情けなくむごいと、伺候している女房も、なるほどこのような世間の人の心だから、これ以上ひどい目に遭わせるに違いないと、頼りにする人もいなくなってしまった我が身を、かえすがえす悲しくお思いになる。 |
男は、よろづに思し知るべきことわりを聞こえ知らせ、言の葉多う、あはれにもをかしうも聞こえ尽くしたまへど、つらく心づきなしとのみ思いたり。 |
男は、いろいろと納得なさるような条理を尽くしてお説き申し上げ、言葉数多く、しみじみと気を引くようなことをどこまでも申し上げなさるが、辛く気にくわないとばかりお思いになっていた。 |
「いと、かう、言はむ方なきものに思ほされける身のほどは、たぐひなう恥づかしければ、あるまじき心のつきそめけむも、心地なく悔しうおぼえはべれど、とり返すものならぬうちに、何のたけき御名にかはあらむ。いふかひなく思し弱れ。 |
「まったく、このように、何とも言いようもない者に思われなさった身のほどは、例のないくらい恥ずかしいので、あってはならない考えがつき始まったのも、迂闊にも悔しく思われますが、昔に戻ることのできない関係で、何の立派なご評判がございましょうか。もう仕方のないこととお諦めください。 |
思ふにかなはぬ時、身を投ぐるためしもはべなるを、ただかかる心ざしを深き淵になずらへたまて、捨てつる身と思しなせ」 |
思い通りにならない時、淵に身を投げる例もございますそうですが、ただこのような愛情を深い淵だとお思いになって、飛び込んだ身だとお思いください」 |
と聞こえたまふ。単衣の御衣を御髪込めひきくくみて、たけきこととは、音を泣きたまふさまの、心深くいとほしければ、 |
と申し上げなさる。単衣のお召し物をお髪ごと被って、できることといっては、声を上げてお泣きになる様子が、心底お気の毒なので、 |
「いとうたて。いかなればいとかう思すらむ。いみじう思ふ人も、かばかりになりぬれば、おのづからゆるぶけしきもあるを、岩木よりけになびきがたきは、契り遠うて、憎しなど思ふやうあなるを、さや思すらむ」 |
「まったく困ったことだ。どうしてまったくこのようにまでお嫌いになるのだろう。強情を張っている人でも、これほどになってしまえば、自然と弱くなる様子もあるのだが、石や木よりもほんとうに心を動かさないのは、前世の因縁が薄いために、恨むようなことがあるが、そのようにお思いなのだろうか」 |
と思ひ寄るに、あまりなれば心憂く、三条の君の思ひたまふらむこと、いにしへも何心もなう、あひ思ひ交はしたりし世のこと、年ごろ、今はとうらなきさまにうち頼み、解けたまへるさまを思ひ出づるも、わが心もて、いとあぢきなう思ひ続けらるれば、あながちにもこしらへきこえたまはず、嘆き明かしたまうつ。 |
と思い当たると、あまりひどいので情けなくなって、三条の君がお悲しみであろうことや、昔も何の疑いもなく、お互いに愛情を交わし合った当時のこと、長年にわたり、もう安心と信頼し、打ち解けていらっしゃった様子を思い出すにつけても、自分のせいで、まことにつまらなく思い続けられずにはいられないので、無理にもお慰め申し上げなさらず、嘆息しながら夜をお明かしになった。 |