第一章 紫の上の物語 死期間近き春から夏の物語
5. 紫の上、明石中宮と対面
本文 |
現代語訳 |
夏になりては、例の暑さにさへ、いとど消え入りたまひぬべき折々多かり。そのことと、おどろおどろしからぬ御心地なれど、ただいと弱きさまになりたまへば、むつかしげに所狭く悩みたまふこともなし。さぶらふ人びとも、いかにおはしまさむとするにか、と思ひよるにも、まづかきくらし、あたらしう悲しき御ありさまと見たてまつる。 |
夏になってからは、いつもの暑さでさえ、ますます意識を失っておしまいになりそうな時々が多かった。どこといって、特に苦しんだりなさらないご病状であるが、ただたいそう衰弱した状態におなりになったので、いかにも病人めいてたいそうにお悩みになることもない。伺候している女房たちも、この先どうおなりになるのだろうか、と思うにつけても、もう目の前がまっくらになって、もったいなくも悲しいご様子と拝する。 |
かくのみおはすれば、中宮、この院にまかでさせたまふ。東の対におはしますべければ、こなたにはた待ちきこえたまふ。儀式など、例に変らねど、この世のありさまを見果てずなりぬるなどのみ思せば、よろづにつけてものあはれなり。名対面を聞きたまふにも、その人、かの人など、耳とどめて聞かれたまふ。上達部など、いと多く仕うまつりたまへり。 |
こうした状態ばかりでいらっしゃるので、中宮が、この二条院に御退出あそばされる。東の対に御滞在あそばす予定なので、こちらでお待ち申し上げていらっしゃる。儀式など、いつもと変わらないが、この世の作法もこれが見納めだろうなどとばかりお思いになると、何かにつけても悲しい。名対面をお聞きになっても、あれは誰、これは誰などと、耳を止めてついお聞きになる。上達部なども大勢供奉なさっていた。 |
久しき御対面のとだえを、めづらしく思して、御物語こまやかに聞こえたまふ。院入りたまひて、 |
久しく御対面なさらなかったので、珍しくお思いになって、お話をこまごまと申し上げなさる。院がお入りになって、 |
「今宵は、巣離れたる心地して、無徳なりや。まかりて休みはべらむ」 |
「今夜は、巣をなくした鳥の思いで、まったくぶざまなさまですね。退出して寝るとしよう」 |
とて、渡りたまひぬ。起きゐたまへるを、いとうれしと思したるも、いとはかなきほどの御慰めなり。 |
と言って、お帰りになってしまった。起きていらっしゃるのを、嬉しいとお思いになるのも、まことにはかないお慰めである。 |
「方々におはしましては、あなたに渡らせたまはむもかたじけなし。参らむこと、はたわりなくなりにてはべれば」 |
「別々のお部屋にいらっしゃったのでは、あちらにお越しあそばすのも恐れ多いことです。お伺いすること、それもできにくくなってしまいましたので」 |
とて、しばらくはこなたにおはすれば、明石の御方も渡りたまひて、心深げにしづまりたる御物語ども聞こえ交はしたまふ。 |
と言って、暫くの間はこちらにいらっしゃるので、明石の御方もお越しになって、心のこもった静かなお話などをお取り交わしなさる。 |