第四章 薫の物語 薫、出生の秘密を知る
6. 薫、父柏木の遺文を読む
本文 |
現代語訳 |
帰りたまひて、まづこの袋を見たまへば、唐の浮線綾を縫ひて、「上」といふ文字を上に書きたり。細き組して、口の方を結ひたるに、かの御名の封つきたり。開くるも恐ろしうおぼえたまふ。 |
お帰りになって、さっそくこの袋を御覧になると、唐の浮線綾を縫って、「上」という文字を表に書いてあった。細い組紐で、口の方を結んである所に、あのお名前の封が付いていた。開けるのも恐ろしく思われなさる。 |
色々の紙にて、たまさかに通ひける御文の返りこと、五つ、六つぞある。さては、かの御手にて、病は重く限りになりにたるに、またほのかにも聞こえむこと難くなりぬるを、ゆかしう思ふことは添ひにたり、御容貌も変りておはしますらむが、さまざま悲しきことを、陸奥紙五、六枚に、つぶつぶと、あやしき鳥の跡のやうに書きて、 |
色とりどりの紙で、たまに通わしたお手紙の返事が、五、六通ある。それには、あの方のご筆跡で、病が重く臨終になったので、再び短いお便りを差し上げることも難しくなってしまったが、会いたいと思う気持ちが増して、お姿もお変わりになったというのが、それぞれに悲しいことを、陸奥国紙五、六枚に、ぽつりぽつりと、奇妙な鳥の足跡のように書いて、 |
「目の前にこの世を背く君よりも よそに別るる魂ぞ悲しき」 |
「目の前にこの世をお背きになるあなたよりも お目にかかれずに死んで行く私の魂のほうが悲しいのです」 |
また、端に、 |
また、端のほうに、 |
「めづらしく聞きはべる二葉のほども、うしろめたう思うたまふる方はなけれど、 |
「めでたく聞いております子供の事も、気がかりに存じられることはありませんが、 |
命あらばそれとも見まし人知れぬ 岩根にとめし松の生ひ末」 |
生きていられたら、それをわが子だと見ましょうが 誰も知らない岩根に残した松の成長ぶりを」 |
書きさしたるやうに、いと乱りがはしうて、「小侍従の君に」と上には書きつけたり。 |
書きさしたように、たいそう乱れた書き方で、「小侍従の君に」と表には書き付けてあった。 |
紙魚といふ虫の棲み処になりて、古めきたる黴臭さながら、跡は消えず、ただ今書きたらむにも違はぬ言の葉どもの、こまごまとさだかなるを見たまふに、「げに、落ち散りたらましよ」と、うしろめたう、いとほしきことどもなり。 |
紙魚という虫の棲み処になって、古くさく黴臭いけれど、筆跡は消えず、まるで今書いたものとも違わない言葉が、詳細で具体的に書いてあるのを御覧になると、「なるほど、人目に触れでもしたら大変だった」と、不安で、おいたわしい事どもなのである。 |
「かかること、世にまたあらむや」と、心一つにいとどもの思はしさ添ひて、内裏へ参らむと思しつるも、出で立たれず。宮の御前に参りたまへれば、いと何心もなく、若やかなるさましたまひて、経読みたまふを、恥ぢらひて、もて隠したまへり。「何かは、知りにけりとも、知られたてまつらむ」など、心に籠めて、よろづに思ひゐたまへり。 |
「このような事が、この世に二つとあるだろうか」と、胸一つにますます煩悶が広がって、内裏に参ろうとお思いになっていたが、お出かけになることができない。母宮の御前に参上なさると、まったく無心に、若々しいご様子で、読経していらっしゃったが、恥ずかしがって、身をお隠しになった。「どうして、秘密を知ってしまったと、お気づかせ申そう」などと、胸の中に秘めて、あれこれと考え込んでいらっしゃった。 |