第二章 薫の物語 秋、八の宮死去す
2. 薫、八の宮と昔語りをする
本文 |
現代語訳 |
夜深き月の明らかにさし出でて、山の端近き心地するに、念誦いとあはれにしたまひて、昔物語したまふ。 |
まだ夜明けには遠い月が明るく差し出して、山の端が近い感じがするので、念誦をたいそうしみじみと唱えなさって、昔話をなさる。 |
「このころの世は、いかがなりにたらむ。宮中などにて、かやうなる秋の月に、御前の御遊びの折にさぶらひあひたる中に、ものの上手とおぼしき限り、とりどりにうち合はせたる拍子など、ことことしきよりも、よしありとおぼえある女御、更衣の御局々の、おのがじしは挑ましく思ひ、うはべの情けを交はすべかめるに、夜深きほどの人の気しめりぬるに、心やましく掻い調べ、ほのかにほころび出でたる物の音など、聞き所あるが多かりしかな。 |
「最近の世の中は、どのようになったのでしょうか。宮中などでは、このような秋の月の夜に、御前での管弦の御遊の時に伺候する人達の中で、楽器の名人と思われる人びとばかりが、それぞれ得意の楽器を合奏しあった調子などは、仰々しいのよりも、嗜みがあると評判の女御、更衣の御局々が、それぞれは張り合っていて、表面的な付き合いはしているようで、夜更けたころの辺りが静まった時分に、悩み深い風情に掻き調べ、かすかに流れ出た楽の音色などが、聞きどころのあるのが多かったな。 |
何ごとにも、女は、もてあそびのつまにしつべく、ものはかなきものから、人の心を動かすくさはひになむあるべき。されば、罪の深きにやあらむ。子の道の闇を思ひやるにも、男は、いとしも親の心を乱さずやあらむ。女は、限りありて、いふかひなき方に思ひ捨つべきにも、なほ、いと心苦しかるべき」 |
何事につけても、女性というのは、慰み事の相手にちょうどよく、何となく頼りないものの、人の心を動かす種であるのでしょう。それだから、罪が深いのでしょうか。子を思う道の闇を思いやるにも、男の子は、それほども親の心を乱さないであろうか。女の子は、運命があって、何とも言いようがないと諦めてしまうような場合でも、やはり、とても気にかかるもののようです」 |
など、おほかたのことにつけてのたまへる、いかがさ思さざらむ、心苦しく思ひやらるる御心のうちなり。 |
などと、一般論としておっしゃるが、どうしてそのようにお思いにならないことがあろうか、おいたわしく推察される宮のご心中である。 |
「すべて、まことに、しか思うたまへ捨てたるけにやはべらむ、みづからのことにては、いかにもいかにも深う思ひ知る方のはべらぬを、げにはかなきことなれど、声にめづる心こそ、背きがたきことにはべりけれ。さかしう聖だつ迦葉も、さればや、立ちて舞ひはべりけむ」 |
「すべて、ほんとうに、先程申し上げましたようにすべてこの世の事は執着を捨ててしまったせいでしょうか、自分自身のことは、どのようなこととも深く分かりませんが、なるほどつまらないことですが、音楽を愛する心だけは、捨てることができません。賢く修業する迦葉も、そうですから、立って舞ったのでございましょう」 |
など聞こえて、飽かず一声聞きし御琴の音を、切にゆかしがりたまへば、うとうとしからぬ初めにもとや思すらむ、御みづからあなたに入りたまひて、切にそそのかしきこえたまふ。箏の琴をぞ、いとほのかに掻きならしてやみたまひぬる。いとど人のけはひも絶えて、あはれなる空のけしき、所のさまに、わざとなき御遊びの心に入りてをかしうおぼゆれど、うちとけてもいかでかは弾き合はせたまはむ。 |
などと申し上げて、名残惜しく聞いたお琴の音を、切にご希望なさるので、親しくなるきっかけにでもとお思いになってか、ご自身はあちらにお入りになって、切にお勧め申し上げなさる。箏の琴を、とてもかすかに掻き鳴らしてお止めになった。常にもまして人の気配もなくひっそりとして、しみじみとした空の様子、場所柄から、ことさらでない音楽の遊びが心にしみて興趣深く思われるが、気を許してどうして合奏なさろうか。 |
「おのづからかばかりならしそめつる残りは、世籠もれるどちに譲りきこえてむ」 |
「自然とこれくらい引き合わせた後は、若い者同士にお任せ申そう」 |
とて、宮は仏の御前に入りたまひぬ。 |
と言って、宮は仏の御前にお入りになった。 |
「われなくて草の庵は荒れぬとも このひとことはかれじとぞ思ふ |
「わたしが亡くなって草の庵が荒れてしまっても この一言の約束だけは守ってくれようと存じます |
かかる対面もこのたびや限りならむと、もの心細きに忍びかねて、かたくなしきひが言多くもなりぬるかな」 |
このようにお目にかかることも今回が最後になるだろうと、何となく心細いのに堪えかねて、愚かなことを多くも言ってしまったな」 |
とて、うち泣きたまふ。客人、 |
と言って、お泣きになる。客人は、 |
「いかならむ世にかかれせむ長き世の 契りむすべる草の庵は |
「いかなる世になりましても訪れなくなることはありません この末長く約束を結びました草の庵には |
相撲など、公事ども紛れはべるころ過ぎて、さぶらはむ」 |
相撲など、公務に忙しいころが過ぎましたら、伺いましょう」 |
など聞こえたまふ。 |
などと申し上げなさる。 |