第一章 大君の物語 薫と大君の実事なき暁の別れ
2. 薫、大君に恋心を訴える
本文 |
現代語訳 |
御願文作り、経仏供養ぜらるべき心ばへなど書き出でたまへる硯のついでに、客人、 |
御願文を作り、経や仏の供養なさる心づもりなどをお書き出しなさる筆のついでに、客人が、 |
「あげまきに長き契りを結びこめ 同じ所に縒りも会はなむ」 |
「総角に末長い契りを結びこめて 一緒になって会いたいものです」 |
と書きて、見せたてまつりたまへれば、例の、とうるさけれど、 |
と書いて、お見せ申し上げなさると、いつもの、と煩わしいが、 |
「ぬきもあへずもろき涙の玉の緒に 長き契りをいかが結ばむ」 |
「貫き止めることもできないもろい涙の玉の緒に 末長い契りをどうして結ぶことができましょう」 |
とあれば、「あはずは何を」と、恨めしげに眺めたまふ。 |
とあるので、「一緒になれなかったら生きている甲斐もありません」と、恨めしそうに物思いにお耽りになる。 |
みづからの御上は、かくそこはかとなくもて消ちて恥づかしげなるに、すがすがともえのたまひよらで、宮の御ことをぞまめやかに聞こえたまふ。 |
ご自身のお身の上については、このように何とはなしに話をそらせて相手をなさらないので、すらすらと意中を申し上げることもできず、宮のご執心を真面目に申し上げなさる。 |
「さしも御心に入るまじきことを、かやうの方にすこしすすみたまへる御本性に、聞こえそめたまひけむ負けじ魂にやと、とざまかうざまに、いとよくなむ御けしき見たてまつる。まことにうしろめたくはあるまじげなるを、などかくあながちにしも、もて離れたまふらむ。 |
「それ程までご執心でないことを、このようなことに少し積極的でいらっしゃるご性格で、一度申し出されては後に引かない意地からかと、あれやこれやと、十分にお気持ちをお探り申し上げております。ほんとうに不安なようではありませんので、どうしてこのようにむやみに、お避けになるのでしょう。 |
世のありさまなど、思し分くまじくは見たてまつらぬを、うたて、遠々しくのみもてなさせたまへば、かばかりうらなく頼みきこゆる心に違ひて、恨めしくなむ。ともかくも思し分くらむさまなどを、さはやかに承りにしがな」 |
男女の仲の様子などを、ご存知でないようには拝見しませんのに、いやに、よそよそしくばかりおあしらいなさるので、これほど心から信頼申し上げている気持ちと違って、恨めしい気がします。どのようにお考えになっているのかなどを、はっきりとお聞き致したいものですね」 |
と、いとまめだちて聞こえたまへば、 |
と、たいそう真面目になって申し上げなさるので、 |
「違へじの心にてこそは、かうまであやしき世の例なるありさまにて、隔てなくもてなしはべれ。それを思し分かざりけるこそは、浅きことも混ざりたる心地すれ。げに、かかる住まひなどに、心あらむ人は、思ひ残す事、あるまじきを、何事にも後れそめにけるうちに、こののたまふめる筋は、いにしへも、さらにかけて、とあらばかからばなど、行く末のあらましごとに取りまぜて、のたまひ置くこともなかりしかば、なほ、かかるさまにて、世づきたる方を思ひ絶ゆべく思しおきてける、となむ思ひ合はせはべれば、ともかくも聞こえむ方なくて。さるは、すこし世籠もりたるほどにて、深山隠れには心苦しく見えたまふ人の御上を、いとかく朽木にはなし果てずもがなと、人知れず扱はしくおぼえはべれど、いかなるべき世にかあらむ」 |
「お気持ちに背くまいとの気持ちなればこそ、こうしてまでおかしな世間の例にもなる状態で、隔てなくお相手しているのでございます。それをお分かりにならなかったことこそ、浅い気持ちがあるような気がします。おっしゃるように、このような住まいなどに、情けの深い人は、ありたけの物思いをし尽くすでしょうが、何事にも後れて育ちましたので、このおっしゃるような方面は、故人も、一向に何一つ、こういう場合にはああいう場合にはなどと、将来のことを予想して、おっしゃっておくこともなかったので、やはり、このような状態で、世間並みの生活を諦めるようお考え置きであった、と思い合わされますので、何ともお答え申し上げようがなくて。一方では、少し生い先長い年頃で、山奥暮らしはお気の毒にお見えになるお身の上を、まことにこのように枯木にはさせたくないものだと、人知れず面倒見ずにはいられなく思っているのですが、どのようになる縁なのでしょうか」 |
と、うち嘆きてもの思ひ乱れたまひけるほどのけはひ、いとあはれげなり。 |
と、嘆息して途方に暮れていらっしゃったときの様子、たいそうおいたわしく感じられる。 |