第一章 中君の物語 匂宮との結婚を前にした宇治での生活
7. 中君と薫、紅梅を見ながら和歌を詠み交す
本文 |
現代語訳 |
御前近き紅梅の、色も香もなつかしきに、鴬だに見過ぐしがたげにうち鳴きて渡るめれば、まして「春や昔の」と心を惑はしたまふどちの御物語に、折あはれなりかし。風のさと吹き入るるに、花の香も客人の御匂ひも、橘ならねど、昔思ひ出でらるるつまなり。「つれづれの紛らはしにも、世の憂き慰めにも、心とどめてもてあそびたまひしものを」など、心にあまりたまへば、 |
お庭前近い紅梅が、花も香もなつかしいので、鴬でさえ見過ごしがたそうに鳴いて飛び移るようなので、まして、「春や昔の」と心を惑わしなさるどうしのお話に、折からしみじみと心を打つのである。風がさっと吹いて入ってくると、花の香も客人のお匂いも、橘ではないが、昔が思い出されるよすがである。「所在ない気の紛らわしにも、世の嫌な慰めにも、心をとめて賞美なさったものを」などと、胸に堪えかねるので、 |
「見る人もあらしにまよふ山里に 昔おぼゆる花の香ぞする」 |
「花を見る人もいなくなってしまいましょうに、嵐に吹き乱れる山里に 昔を思い出させる花の香が匂って来ます」 |
言ふともなくほのかにて、たえだえ聞こえたるを、なつかしげにうち誦じなして、 |
言うともなくかすかに、とぎれとぎれに聞こえるのを、やさしそうにちょっと口ずさんで、 |
「袖ふれし梅は変はらぬ匂ひにて 根ごめ移ろふ宿やことなる」 |
「昔賞美された梅は今も変わらぬ匂いですが 根ごと移ってしまう邸は他人の所なのでしょうか」 |
堪へぬ涙をさまよくのごひ隠して、言多くもあらず |
止まらない涙を体裁よく拭い隠して、言葉数も多くなく、 |
「またもなほ、かやうにてなむ、何ごとも聞こえさせよかるべき」 |
「またやはり、このように、何事もお話し申し上げたいものです」 |
など、聞こえおきて立ちたまひぬ。 |
などと、申し上げおいてお立ちになった。 |
御渡りにあるべきことども、人びとにのたまひおく。この宿守に、かの鬚がちの宿直人などはさぶらふべければ、このわたりの近き御荘どもなどに、そのことどもものたまひ預けなど、こまやかなることどもをさへ定めおきたまふ。 |
お引越しに必要な支度を、人びとにお指図おきなさる。この邸の留守番役として、あの鬚がちの宿直人などが仕えることになっているので、この近辺の御荘園の者どもなどに、そのことをお命じになるなど、生活面の事まで定めおきなさる。 |