第一章 中君の物語 匂宮との結婚を前にした宇治での生活
8. 薫、弁の尼と対面
本文 |
現代語訳 |
弁ぞ、 |
弁は、 |
「かやうの御供にも、思ひかけず長き命いとつらくおぼえはべるを、人もゆゆしく見思ふべければ、今は世にあるものとも人に知られはべらじ」 |
「このようなお供にも、思いもかけず長生きがつらく思われますが、人も不吉に見たり思ったりするにちがいないでしょうから、今は世に生きている者とも人に知られますまい」 |
とて、容貌も変へてけるを、しひて召し出でて、いとあはれと見たまふ。例の、昔物語などせさせたまひて、 |
と言って、出家をしていたのを、しいて召し出して、まことにしみじみと御覧になる。いつものように、昔の思い出話などをおさせになって、 |
「ここには、なほ、時々は参り来べきを、いとたつきなく心細かるべきに、かくてものしたまはむは、いとあはれにうれしかるべきことになむ」 |
「ここには、やはり、時々参りましょうが、まことに頼りなく心細いので、こうしてお残りになるのは、まことにしみじみとありがたく嬉しいことです」 |
など、えも言ひやらず泣きたまふ。 |
などと、最後まで言い終わらずにお泣きになる。 |
「厭ふにはえて延びはべる命のつらく、またいかにせよとて、うち捨てさせたまひけむ、と恨めしく、なべての世を思ひたまへ沈むに、罪もいかに深くはべらむ」 |
「厭わしく思えば思うほど長生きをする寿命がつらく、またどう生きよといって、先に逝っておしまいになったのか、と恨めしく、この世のすべてを情けなく思っておりますので、罪もどんなにか深い事でございましょう」 |
と、思ひけることどもを愁へかけきこゆるも、かたくなしげなれど、いとよく言ひ慰めたまふ。 |
と、思っていたことをお訴え申し上げるのも、愚痴っぽいが、とてもよく言い慰めなさる。 |
いたくねびにたれど、昔、きよげなりける名残を削ぎ捨てたれば、額のほど、様変はれるに、すこし若くなりて、さる方に雅びかなり。 |
たいそう年をとっているが、昔、美しかった名残の黒髪を削ぎ落としたので、額の具合、変わった感じに少し若くなって、その方面の身としては優美である。 |
「思ひわびては、などかかる様にもなしたてまつらざりけむ。それに延ぶるやうもやあらまし。さても、いかに心深く語らひきこえてあらまし」 |
「思いあぐねた果てに、どうしてこのような尼姿にして差し上げなかったのだろう。それによって寿命が延びるようなこともあったろうに。そうして、どんなに親密に語らい申し上げられたろうに」 |
など、一方ならずおぼえたまふに、この人さへうらやましければ、隠ろへたる几帳をすこし引きやりて、こまかにぞ語らひたまふ。げに、むげに思ひほけたるさまながら、ものうち言ひたるけしき、用意、口惜しからず、ゆゑありける人の名残と見えたり。 |
などと、一方ならず思われなさると、この人までが羨ましいので、隠れている几帳を少し引いて、こまやかに語らいなさる。なるほど、すっかり悲しみに暮れている様子だが、何か言う態度、心づかいは、並々でなく、嗜みのあった女房の面影が残っていると見えた。 |
「さきに立つ涙の川に身を投げば 人におくれぬ命ならまし」 |
「先に立つ涙の川に身を投げたら 死に後れしなかったでしょうに」 |
と、うちひそみ聞こゆ。 |
と、泣き顔になって申し上げる。 |
「それもいと罪深かなることにこそ。かの岸に到ること、などか。さしもあるまじきことにてさへ、深き底に沈み過ぐさむもあいなし。すべて、なべてむなしく思ひとるべき世になむ」 |
「それもとても罪深いことです。彼岸に辿り着くことは、どうしてできようか。それ以外のことであってさえも、深い悲しみの底に沈んで生きてゆくのもつまらない。すべて、皆無常だと悟るべき世の中なのです」 |
などのたまふ。 |
などとおっしゃる。 |
「身を投げむ涙の川に沈みても 恋しき瀬々に忘れしもせじ |
「身を投げるという涙の川に沈んでも 恋しい折々を忘れることはできまい |
いかならむ世に、すこしも思ひ慰むることありなむ」 |
いつになったら、少しは思いが慰むことがあろうか」 |
と、果てもなき心地したまふ。 |
と、終わりのない気がなさる。 |
帰らむ方もなく眺められて、日も暮れにけれど、すずろに旅寝せむも、人のとがむることやと、あいなければ、帰りたまひぬ。 |
帰る気にもなれず物思いに沈んで、日も暮れてしまったが、わけもなく外泊するのも、人が咎めることであろうかと、仕方ないので、お帰りになった。 |