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宿木

第五章 中君の物語 中君、薫の後見に感謝しつつも苦悩す   

2. 匂宮、帰邸して、薫の移り香に不審を抱く     

 

本文

現代語訳

 宮は、日ごろになりにけるは、わが心さへ恨めしく思されて、にはかに渡りたまへるなりけり。

 宮は、何日もご無沙汰しているのは、自分自身でさえ恨めしく思われなさって、急にお渡りになったのであった。

 「何かは、心隔てたるさまにも見えたてまつらじ。山里にと思ひ立つにも、頼もし人に思ふ人も、疎ましき心添ひたまへりけり」

 「何とか、心に隔てをおいているようにはお見せ申すまい。山里にと思い立つにつけても、頼りにしている人も、嫌な心がおありだったのだわ」

 と見たまふに、世の中いと所狭く思ひなられて、「なほいと憂き身なりけり」と、「ただ消えせぬほどは、あるにまかせて、おいらかならむ」と思ひ果てて、いとらうたげに、うつくしきさまにもてなしてゐたまへれば、いとどあはれにうれしく思されて、日ごろのおこたりなど、限りなくのたまふ。

 とお思いになると、世の中がとても身の置き所なく思わずにはいられなくなって、「やはり嫌な身の上であった」と、「ただ死なない間は、生きているのにまかせて、おおらかにしていよう」と思いあきらめて、とてもかわいらしそうに美しく振る舞っていらっしゃるので、ますますいとしく嬉しくお思いになって、何日ものご無沙汰など、この上なくおっしゃる。

 御腹もすこしふくらかになりにたるに、かの恥ぢたまふしるしの帯の引き結はれたるほどなど、いとあはれに、まだかかる人を近くても見たまはざりければ、めづらしくさへ思したり。うちとけぬ所にならひたまひて、よろづのこと、心やすくなつかしく思さるるままに、おろかならぬ事どもを、尽きせず契りのたまふを聞くにつけても、かくのみ言よきわざにやあらむと、あながちなりつる人の御けしきも思ひ出でられて、年ごろあはれなる心ばへなどは思ひわたりつれど、かかる方ざまにては、あれをもあるまじきことと思ふにぞ、この御行く先の頼めは、いでや、と思ひながらも、すこし耳とまりける。

 お腹も少しふっくらとなっていたので、あのお恥じらいになるしるしの腹帯が結ばれているところなど、たいそういじらしく、まだこのような人を近くに御覧になったことがないので、珍しくまでお思いになっていた。気の置けるところに居続けなさって、万事が、気安く懐かしくお思いになるままに、並々ならぬことを、尽きせず約束なさるのを聞くにつけても、こうして口先ばかり上手なのではないかと、無理なことを迫った方のご様子も思い出されて、長年親切な気持ちと思い続けていたが、このようなことでは、あの方も許せないと思うと、この方の将来の約束は、どうかしら、と思いながらも、少しは耳がとまるのであった。

 「さても、あさましくたゆめたゆめて、入り来たりしほどよ。昔の人に疎くて過ぎにしことなど語りたまひし心ばへは、げにありがたかりけりと、なほうちとくべくはた、あらざりけりかし」

 「それにしても、あきれるくらいに油断させておいて、入って来たことよ。亡くなった姉君と関係なく終わってしまったことなどお話になった気持ちは、なるほど立派であったと、やはり気を許すことはあってはならないのだった」

 など、いよいよ心づかひせらるるにも、久しくとだえたまはむことは、いともの恐ろしかるべくおぼえたまへば、言に出でては言はねど、過ぎぬる方よりは、すこしまつはしざまにもてなしたまへるを、宮はいとど限りなくあはれと思ほしたるに、かの人の御移り香の、いと深くしみたまへるが、世の常の香の香に入れ薫きしめたるにも似ず、しるき匂ひなるを、その道の人にしおはすれば、あやしととがめ出でたまひて、いかなりしことぞと、けしきとりたまふに、ことのほかにもて離れぬことにしあれば、言はむ方なくわりなくて、いと苦しと思したるを、

 などと、ますます心配りがされるにつけても、久しくご無沙汰が続きなさることは、とても何となく恐ろしいように思われなさるので、口に出して言わないが、今までよりは、少し引きつけるように振る舞っていらっしゃるのを、宮はますますこの上なくいとしいとお思いになっていらっしゃると、あの方の御移り香が、たいそう深く染みていらっしゃるのが、世の常の香をたきしめたのと違って、はっきりとした薫りなのを、その道の達人でいらっしゃるので、妙だと不審をいだきなさって、どうしたことかと、様子を伺いなさるので、見当外れのことでもないので、言いようもなく困って、ほんとうにつらいとお思いになっていらっしゃるのを、

 「さればよ。かならずさることはありなむ。よも、ただには思はじ、と思ひわたることぞかし」

 「そうであったか。きっとそのようなことはあるにちがいない。よもや、平気でいられるはずがない、とずっと思っていたことだ」

 と御心騷ぎけり。さるは、単衣の御衣なども、脱ぎ替へたまひてけれど、あやしく心より外にぞ身にしみにける。

 とお心が騒ぐのだった。その実、単衣のお召し物類は、脱ぎ替えなさっていたが、不思議と意外にも身にしみついていたのであった。

 「かばかりにては、残りありてしもあらじ」

 「こんなに薫っていては、何もかも許したのであろう」

 と、よろづに聞きにくくのたまひ続くるに、心憂くて、身ぞ置き所なき。

 と、すべてに聞きにくくおっしゃり続けるので、情けなくて、身の置き所もない。

 「思ひきこゆるさまことなるものを、我こそ先になど、かやうにうち背く際はことにこそあれ。また御心おきたまふばかりのほどやは経ぬる。思ひの外に憂かりける御心かな」

 「お愛し申し上げているのは格別なのに、捨てられるなら自分から先になどと、このように裏切るのは身分の低い者のすることです。また隔て心をお置きになるほどご無沙汰をしたでしょうか。意外にもつらいお心ですね」

 と、すべてまねぶべくもあらず、いとほしげに聞こえたまへど、ともかくもいらへたまはぬさへ、いとねたくて、

 と、何から何まで語り伝えることができないくらい、とてもお気の毒な申し上げようをなさるが、何ともお返事申し上げなさらないのまでが、まことに憎らしくて、

 「また人に馴れける袖の移り香を

   わが身にしめて恨みつるかな」

 「他の人に親しんだ袖の移り香か

   わが身にとって深く恨めしいことだ」

 女は、あさましくのたまひ続くるに、言ふべき方もなきを、いかがは、とて、

 女方は、ひどいおっしゃりようが続くので、何ともお返事できないでいるが、黙っているのもどうかしら、と思って、

 「みなれぬる中の衣と頼めしを

   かばかりにてやかけ離れなむ」

 「親しみ信頼してきた夫婦の仲も

   この程度の薫りで切れてしまうのでしょうか」

 とて、うち泣きたまへるけしきの、限りなくあはれなるを見るにも、「かかればぞかし」と、いと心やましくて、我もほろほろとこぼしたまふぞ、色めかしき御心なるや。まことにいみじき過ちありとも、ひたぶるにはえぞ疎み果つまじく、らうたげに心苦しきさまのしたまへれば、えも怨み果てたまはず、のたまひさしつつ、かつはこしらへきこえたまふ。

 と言って、お泣きになる様子が、この上なくかわいそうなのを見るにつけても、「これだからこそ」と、ますますいらいらして、自分もぽろぽろと涙を流しなさるのは、色っぽいお心だこと。ほんとうに大変な過ちがあったとしても、一途には疎みきれない、かわいらしくおいたわしい様子をしていらっしゃるので、最後まで恨むこともおできになれず、途中で言いさしなさっては、その一方ではおなだめすかしなさる。



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