第七章 浮舟の物語 浮舟、匂宮にも逢わず、母へ告別の和歌を詠み残す
8. 浮舟、母への告別の和歌を詠み残す
本文 |
現代語訳 |
寺へ人遣りたるほど、返り事書く。言はまほしきこと多かれど、つつましくて、ただ、 |
寺へ使者をやった間に、返事を書く。言いたいことはたくさんあるが、気がひけて、ただ、 |
「後にまたあひ見むことを思はなむ この世の夢に心惑はで」 |
「来世で再びお会いすることを思いましょう この世の夢に迷わないで」 |
誦経の鐘の風につけて聞こえ来るを、つくづくと聞き臥したまふ。 |
誦経の鐘の音が風に乗って聞こえて来るのを、つくづくと聞き臥していらっしゃる。 |
「鐘の音の絶ゆる響きに音を添へて わが世尽きぬと君に伝へよ」 |
「鐘の音が絶えて行く響きに、泣き声を添えて わたしの命も終わったと母上に伝えてください」 |
巻数持て来たるに書きつけて、 |
僧の所から持って来た手紙に書き加えて、 |
「今宵は、え帰るまじ」 |
「今夜は、帰ることはできまい」 |
と言へば、物の枝に結ひつけて置きつ。乳母、 |
と言うので、何かの枝に結び付けておいた。乳母が、 |
「あやしく、心ばしりのするかな。夢も騒がし、とのたまはせたりつ。宿直人、よくさぶらへ」 |
「妙に、胸騷ぎのすることだわ。夢見が悪い、とおっしゃった。宿直人、十分注意するように」 |
と言はするを、苦しと聞き臥したまへり。 |
などと言うのを、苦しいと聞きながら臥していらっしゃった。 |
「物聞こし召さぬ、いとあやし。御湯漬け」 |
「何もお召し上がりにならないのは、とてもいけません。お湯漬けを」 |
などよろづに言ふを、「さかしがるめれど、いと醜く老いなりて、我なくは、いづくにかあらむ」と思ひやりたまふも、いとあはれなり。「世の中にえあり果つまじきさまを、ほのめかして言はむ」など思すに、まづ驚かされて先だつ涙を、つつみたまひて、ものも言はれず。右近、ほど近く臥すとて、 |
などといろいろと言うのを、「よけいなおせっかいのようだが、とても醜く年とって、わたしが死んだら、どうするのだろう」とご想像なさるのも、とても不憫である。「この世には生きていられないことを、ちらっと言おう」などとお思いになるが、何より先に涙が溢れてくるのを、隠しなさって、何もおっしゃれない。右近は、お側近くに横になろうとして、 |
「かくのみものを思ほせば、もの思ふ人の魂は、あくがるなるものなれば、夢も騒がしきならむかし。いづ方と思し定まりて、いかにもいかにも、おはしまさなむ」 |
「このようにばかり物思いをなさると、物思う人の魂は、抜け出るものと言いますから、夢見も悪いのでしょう。どちらの方かとお決めになって、どうなるにもこうなるにも、思う通りになさってください」 |
とうち嘆く。萎えたる衣を顔におしあてて、臥したまへり、となむ。 |
と溜息をつく。柔らかくなった衣を顔に押し当てて、臥せっていらっしゃった、とか。 |