第二章 浮舟の物語 浮舟の小野山荘での生活
2. もののけ出現
本文 |
現代語訳 |
「朝廷の召しにだに従はず、深く籠もりたる山を出でたまひて、すぞろにかかる人のためになむ行ひ騷ぎたまふと、ものの聞こえあらむ、いと聞きにくかるべし」と思し、弟子どもも言ひて、「人に聞かせじ」と隠す。僧都、 |
「朝廷のお召しでさえお受けせず、深く籠もっている山をお出になって、わけもなくこのような人のために修法をなさっていると、噂が聞こえた時には、まことに聞きにくいことであろう」とお思いになり、弟子どももそう意見して、「人に聞かせまい」と隠す。僧都は、 |
「いで、あなかま。大徳たち。われ無慚の法師にて、忌むことの中に、破る戒は多からめど、女の筋につけて、まだ誹りとらず、過つことなし。六十に余りて、今さらに人のもどき負はむは、さるべきにこそはあらめ」 |
「まあ、お静かに。大徳たち。わたしは破戒無慚の法師で、戒律の中で、破った戒律は多かろうが、女の方面ではまだ非難されたことなく、過ったこともない。年齢も六十を過ぎて、今さら人の非難を受けるのは、前世の因縁なのであろう」 |
とのたまへば、 |
とおっしゃると、 |
「よからぬ人の、ものを便なく言ひなしはべる時には、仏法の瑕となりはべることなり」 |
「口さがない連中が、何か不都合な事にとりなして言いました時には、仏法の恥となりますことです」 |
と、心よからず思ひて言ふ。 |
と、不機嫌に思って言う。 |
「この修法のほどにしるし見えずは」 |
「この修法によって効験が現れなかったら」 |
と、いみじきことどもを誓ひたまひて、夜一夜加持したまへる暁に、人に駆り移して、「何やうのもの、かく人を惑はしたるぞ」と、ありさまばかり言はせまほしうて、弟子の阿闍梨、とりどりに加持したまふ。月ごろ、いささかも現はれざりつるもののけ、調ぜられて、 |
と、非常な決意をなさって、夜一晩中、加持なさった翌早朝に、人に乗り移らせて、「どのような物の怪がこのように人を惑わしていたのであろう」と、様子だけでも言わせたくて、弟子の阿闍梨が、交替で加持なさる。何か月もの間、少しも現れなかった物の怪が、調伏されて、 |
「おのれは、ここまで参うで来て、かく調ぜられたてまつるべき身にもあらず。昔は行ひせし法師の、いささかなる世に恨みをとどめて、漂ひありきしほどに、よき女のあまた住みたまひし所に住みつきて、かたへは失ひてしに、この人は、心と世を恨みたまひて、我いかで死なむ、と言ふことを、夜昼のたまひしにたよりを得て、いと暗き夜、独りものしたまひしを取りてしなり。されど、観音とざまかうざまにはぐくみたまひければ、この僧都に負けたてまつりぬ。今は、まかりなむ」 |
「自分は、ここまで参って、このように調伏され申すべき身ではない。生前は、修業に励んだ法師で、わずかにこの世に恨みを残して、中有にさまよっていたときに、よい女が大勢住んでいられた辺りに住み着いて、一人は失わせたが、この人は、自分から世を恨みなさって、自分は何とかして死にたい、ということを、昼夜おっしゃっていたのを手がかりと得て、まことに暗い夜に、一人でいらした時に奪ったのである。けれども、観音があれやこれやと加護なさったので、この僧都にお負け申してしまった。今は、立ち去ろう」 |
とののしる。 |
と声を立てる。 |
「かく言ふは、何ぞ」 |
「こう言うのは、何者だ」 |
と問へば、憑きたる人、ものはかなきけにや、はかばかしうも言はず。 |
と問うが、乗り移らせた人が、力のないせいか、はっきりとも言わない。 |