花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかはと、兼好が書きたる様なる心ねをもちたるものは、世間にただ一人ならでなき也。
とは、『徒然草』の書かれたころから、およそ百年あまり後に成立した『徹書記物語』に見える、歌人正徹の言葉である。つづいて、寛正四年に成立した連歌師心敬の『ささめごと』にも、同じ兼好の言葉に対して、
兼好法師が云ふ、月花をば、目にて見るものかは。雨の夜に思ひあかし、散りしをれたる木かげにきて、過ぎにしかたをおもふこそと書き侍る、まことに艶ふかく覚え侍り。
と記している。
これら二人の代表的な中世詩人たちは、『徒然草』下巻の冒頭におかれている、第百三十七段の言葉を引用しながら、それぞれ兼好の心的態度に共感し、その芸術精神を絶賛しているのである。
ところが近臣期にはいると、このような中世的な『徒然草』評価は必ずしも継承されず、むしろ断絶されるのであって、その代表的な場合が、ほかならぬ本居宣長によって示された『徒然草』に対する異議申し立てである。周知のように、宣長はその著『玉勝間』に、「兼好法師が詞のあげつらひ」という一章を設けて、やはり『徒然草』の百三十七段をとりあげ、
けんかうほうしがつれづれ草に、花はさかりに、月はくまなきをのみ見る物かはとかいへるは、いかにぞや。
と、疑義を提出したうえで、
さるを、かのほうしがいへるごとくなるは、人の心にさかひたる、後の世のさかしら心の、つくり風流にして、まことのみやびごころにはあらず、かのほうしがいへる言ども、此のたぐひ多し、皆同じ事也。
と、全面的に批判している。
『徒然草』に対する評価は、中世・近世・近代にわたって、じつに多種多様であり、近世の初頭に、はじめて『徒然草』の注釈書として出版された『徒然草寿命院抄』以来、膨大な文献があり、これらを評価史としてたどるとすれば、それだけで一巻の書を必要とするほどである。しかし、上にあげた正徹・心敬と宣長との間にみられるような正反の対立は、評価史上でも著しい例として、『徒然草』の本質を最も鮮明に照射しているのであって、現代における『徒然草』評価も、ここに提起されている問題をよけてとおることはできない。ここには、単に一篇の随想『徒然草』の評価だけにとどまらぬ、それをめぐっての中世文学についての評価の対立という問題が提起されており、さらにまた、それらと現代文学とが、いかにかかわるかということが、はなはだラジカルに問いかけられているからである。
ところで、このような『徒然草』の投げかける基本的な課題に答えるためには、当然、まず作品そのものにつくほかないのであるが、いま本書のテキストによって、『徒然草』を読み進めるにあたって、作品の読解と並行して、これまでの研究や調査がすでに提起している諸問題について、その大要を知っておくことは無用ではあるまい。そこで以下、章を改めてこれらの問題点を概括することにしたい。
『徒然草』の伝本には、すでに百をこえる諸本が知られているが、本書の底本には、そのなかからとくに、いわゆる烏丸本を選んでいるので、まず、この本の解題からはじめたい。この種の伝本は、宮内庁書陵部・東京大学文学部国語研究室その他に所蔵されているが、近世初期の文人烏丸光広が、慶長十八年に記した次のような奥書があるので、烏丸本と呼ばれている。
這両帖、吉田兼好法師、燕居之日、徒然 向暮、染筆写情者也。頃日、泉南亡羊処士、箕踞 洛之草廬而談李老
之虚無説荘生之自然旦以暇日 対二三子戯講焉。加之、後将書以命於工鏤於梓而付夫二三子
矣。越、句読・清濁以下、啓予 糾之。予坐好其志 忘其醜卒加校訂而已。復恐有其遺逸也。
慶長癸丑 仲秋日 光広
右の識語によれば、和泉国の、亡羊を称する江戸初期の儒者・三宅寄斎が、京都の草庵において『徒然草』を講じたが、やがて、その『徒然草』を書写して上梓しようとし、烏丸光広に句読・清濁等を施すことを求めた。光広はこれに応じて、寄斎の写した本を校訂し、その旨を右の奥書として記したのである。当時、光広は権中納言、慶長十八年八月十五日のことである。つまり光広自身の言葉を借用すれば、この本は烏丸光広による校定本である。細川幽斎に古今伝授を受けた、近世初期の代表的文人が校訂を加えた『徒然草』として、その句読・清濁等は現在でも参考に供する価値があり、本書の校訂にも、これによったところが少なくない。もちろんこの本は、『徒然草』の成立期から、ほとんど三百年近くも後に刊行されているから、光広による清濁点のごときも、必ずしも兼好時代の読みかたを再現していないと認められるところもあることは、本書の校注に示したとおりである。それにしてもその本文は、最近まで版行された『徒然草』の伝本のうちでは、もっとも広く採用されてきたもので、近世以来、いわば流布本中の流布本として読みつがれた、『徒然草』中の代表的な伝本である。
本書ではまた、底本・烏丸本の誤脱を補訂するために、田中本(田中忠三郎氏蔵、上下二冊)を参照した。田中本は正徹本等の異本群に対比すると、その特異本文等において、烏丸本と同系統に属することが著しいが、さらに微細な点においても烏丸本の本文に酷似しており、両者を相互に補訂することによって、流布本の源流的な本文形態に接近することが可能である。近世初期の写本であるが、烏丸本と並んで、田中本もまた、流布本中の代表的な一本と認められる。
しかし近来、『徒然草』の本文研究が進むにつれて、烏丸本・田中本等の流布本系統に属する諸本の本文と著しく相違する異本群が、つぎつぎに発見され、『徒然草』原典の形態を明らかにするには、流布本を含めての、それら諸本群の全面的な再検討が要求されるようになった。
もともと『徒然草』の先駆的な諸本論としては、戦前にも飯野竹男の「徒然草本文批評小論」(『国語と国文学』昭和一三・九)などがあったが、やがて鈴木知太郎の「徒然草諸本解説」(山田孝雄編『つれつれ草』所収、昭和一〇)が、三十六に及ぶ諸本を精査し、それらを流布本系と異本系の二系統に分かち、さらに前者を四類、後者を三類に細分し、全面的な系統論を展開して以来、本格的な研究時代にはいった。この系統論は今なお、『徒然草』諸本論の前提として評価されているが、百本をこえる伝本が対象となってきた現在では、諸説は対立し、いちおうの定説もないというのが現状であり、現在では、烏丸本・田中本その他の流布本系統の諸本のほかに、異本として正徹本・常緑本、あるいは幽斎本等の諸系列を立てようとする説が、しだいに有力視されるようになってきた。
本書は、以上の諸本研究の現状にかんがみ、流布木系の代表的伝本と認められる烏丸本を底本とし、同系統の流布本の中から田中本を、異本群の中から正徹本と常緑本とを選び、いちおう、四本の校訂になる本文によることにしたので、ここで、さらに右の二異本についても、その概要を記しておくことにする。
第一の正徹本(上下二冊)は、現在知られている『徒然草』諸本中、最古の伝本で、正徹の自筆になる永享三年の奥書がある。『徒然草』成立後、およそ百年にあたる時期の写本であって、烏丸本等の流布本系統の本文に対して、著しい異同箇所がある。なかでも、
写本云此段本はみせけちなれとも私記之
として、流布本にはないみせけちの段のあったことを、私注として示しているところが、第百五十一段をはじめ五箇所もあること、また流布本系の諸本では第二百二十三段にある「鶴の大臣殿は……」の一段が、正徹本では、流布本の四十六段と四十七段との間にあたる場所に収められているなどの、著しい相違点があり、さらに流布本との本文の異同にも、独特の部分が少なくないことは、本書に注記したとおりである。それらの異同によって、正徹本がただちに『徒然草』の原形を示唆するとは認められないが、流布本の欠脱や誤写を補うにたる部分は少なくなく、その書写年代が、現存諸本中最古であることともあわせて、正徹本が、『徒然草』原態の追求、あるいは個々の段の解読上、欠くことのできない最も有力な異本の一つであることを認めざるをえない。
第二の常縁本(上下二冊)は、東常緑による書写とも伝えられてきた室町時代の写本で、同じく流布本に対して特異の本文をもつ部分が多く、正徹本とともに流布本を補正しうるところが少なくない。特に常縁本は、本文章段の配列が、流布本とも正徹本とも著しく異なっており、これらの特異本文は、流布本はいうまでもなく、正徹本をも含めて、従来の主要な系統に属する諸本の本文を相対化し、少なくともそれによって、『徒然草』原態探究の跳躍台となったことには異論がないだろう。そのほか、近来紹介された藍表紙本(桃園文庫蔵)・陽明文庫蔵本その他なども、一部に推定されているように、それらがただちに『徒然草』の原態を表現しているとは認められないが、これらによって、『徒然草』の本文が、流布本だけにたよって読解されていたような研究の段階がのりこえられ、諸本の独自異文が、それぞれ相対化されかつ位置づけられることによって、『徒然草』の本文研究は、飛躍的に推進されはじめたといえよう。それらの個々の研究成果については、別項の参考文献目録に掲げた「本文研究」の部の諸論を参照されたいが、このような本文批判の進歩と並行して、『徒然草』の成立に関する探求も、またとくに戦後、急速に進められてきたので、以下、その概要を記すことにしたい。
2.徒然草の成立
『徒然草』が、兼好法師による作品であることについては、前章に述べた正徹本『徒然草』(永享三年の奥書)が、その上・下巻末に、それぞれ「兼好法師作也云々」と明記しており、また同じ正徹の著述になる『徹書記物語』にも、『徒然草』第百三十七段の一節を引用して、兼好法師を絶賛したうえで、「つれづれ草のおもふりは清少納言が枕草子の様なり」と記しており、さらに心敬も、その『ささめごと』(寛正四年成立)の中で、同じく第百三十七段の一節を、兼好の言葉として賛嘆しているのであって、およそ室町時代の十五世紀中葉以来、とくに疑われたこともなかったし、また、これらの確認を反証しうる材料は何もないといってよい。
ただ以上の記録は、『徒然草』の成立時期からいえば、ほとんど百年あるいはそれ以上を経過した後のものであって、兼好生存中、あるいは『徒然草』の成立を推定されている時期からおよそ百年の間に、兼好が『徒然草』を書いたことを明証する外徴は何も残されていない。しかも兼好の享年さえ明確にしえない現在、作品としての『徒然草』が、いつ、どのようなプロセスで成立したかについて明らかにすることは、きわめて困難である。
けれども、このような『徒然草』の成立問題に挑んで、これを明らかにしようとする努力は、早くから積みかさねられてきた。まず江戸時代の隠者閑寿が、『徒然草集説』(元禄十四年刊)で、本文の内徴から成立年代を限定しようとし、つづいて土肥経平も、その『春湊浪話』(安永四年跋)で、これを試みている。明治期にはいると、藤岡作太郎の『鎌倉室町時代文学史』が、さらに同様な方法で、『徒然草』の起草年代を推定しようとしているが、この課題を、厳密に追求した本格的な研究は、橘純一の「徒然草著作年代について」(『歴史と国文学』昭和六・一)である。(橘はその後も、『つれづれ草通釈』下に所収の「徒然草の執筆された年代」〈昭和一六〉、および「日本古典全書」所収の『徒然草』〈昭和二二〉等に、この説をいっそう精密化し補足している。)
橘の論証は、主として、流布本『徒然草』の本文の内部徴証によるもので、たとえば『徒然草』第百二段に、「尹大納言光忠入道」とあるのは、尹つまり弾正台の長官であった源光忠が、権大納言に任ぜられた元徳二年十一月七日以降の記事でなければならないとし、また第二百三十八段に「当代」とあるのは後醍醐天皇をさすのであるから、この部分は光厳院践祚の元弘二年九月二十日以前に記されたはずであると考証するなど、記事中の人物・事項執筆時期の年代的な上限・下限を逐次追跡・限定した結果、『徒然草』は、元徳二年十一月以降、元弘元年九月二十日以前の、約一年たらずの間に執筆されたと結論するのである。
以上の結論は、その後、長期にわたって広く認められ、現在でも成立年代考察の出発点になっているが、この論は第一に、『徒然草』の流布本が論証の前提として、ほとんど無批判に認められており、また前述の論証自体も、その限定に矛盾する部分があった。たとえば、第百三段の「侍従大納言公明卿」などは、延元元年に権大納言となっており、この時点は、橘による結論としての、執筆時期の下限にあたる元弘元年から五年もはみだしてしまうが、橘は、これを例外として許容するという問題を残していたなどである。はたして、その後の研究、とくに諸本・伝記研究の、また作品そのものの内在的な諸研究の結果は、流布本章段の順序がそのまま原典の形態であると考えることに、さまざまな疑問を提出してきた。たとえば前記の第百三段の件も、例外的な誤写などとして許容するのではなく、そのまま認めて、逆に執筆期間を拡大すべきであることが指摘され、やがて、このような随筆作品を短期間の執筆と考えること自体が否定されるようになってきた。
その代表的な論の一つは、西尾実の、「徒然草と現代」(『文学』昭和一三・一○)をはじめとする所説で、『徒然草』第三十段あたりまでとそれ以後とでは、兼好の思想に飛躍的な落差があるとし、第三十段くらいまでの詠嘆的な無常観が、それ以後の諸段では克服されて、自覚的な無常観に到達しており、『徒然草』の表現そのものも、二つの部分に変化があると指摘している。こうして、作品に表現されている兼好の思想のありかたから、橘説を超える論が展開されはじめた。この説を前提とし、さらに本文の内徴を再検討し、他方では兼好の伝記的研究にも新説を提示しつつ、序段以下第三十二段までの部分を第一部とし、これらの諸段は、文保三年までに執筆され、つづいて元徳二〜元弘元年の間に、第三十三段以降が成り、その後、右二部が一つにまとめられて、上下二巻に編成されたであろうとし、このとき、第二部の中に、いくつかの段が補入されたか、語句の補訂があったらしいとするのが、安良岡康作の説である。この両説によって、『徒然草』成立論は新しい段階に到達したといってよい。
なお西尾の二部説に対しては、安良岡説に先立って、さらにこれを修正しようとする松本新八郎の説があった。松本は、「徒然草その無常について」(『文学』昭和三三・一)において、『徒然草』の思想的な展開を追求し、あらたに三部説を立てた。つまり『徒然草』の第三十三段あたりまでと、第三十八段あたりから第四十一段、第四十九段と展開するにつれて、兼好は外界によって動揺する心を、ひたむきな外縁そのものの放下によって安定せしめようとする(上巻後半)ようになり、さらに下巻にいたると、一度否定しようとした外縁を再び積極的にとらえなおし、外縁と内心とを統一的に把握するようになる。ところが下巻の第二百段以降になると、各段の来意もなげやりになり、第二百十一段を最後に、まともな考察があとを絶ち、兼好の追求してきた無常の論理も、展開がなくなってしまう。少なくとも、第二百十九段以降は、兼好が後の編集の際に、書きだめを整理などして、つけくわえたものであろう、とするのである。この稿筆者も、ほぼ第二百十九段以降には、それまでの思想的な追求の緊張が弱まり、ほとんど繰返しにとどまり、その論理も形式論理的な興味に傾きがちであることを認め、他方では兼好が、高師直をはじめとする新興武家層の門に、有職故実や和歌の指南役として出入りしたこと、また『太平記』巻二十一の「塩冶判官讒死事」に見られる、師直のための艶書代筆伝説等にいたるまでの事実あるいは虚構等にもうかがえる、その晩年の生活史との微妙な呼応関係をも顧慮しながら、この部分を、この時代にふさわしい執筆であろうと考えてきた(『中世文学の成立』所収「方丈記と徒然草」第六節参照)が、さらにいえば、松本の指摘する、外界の機縁への兼好の対応の変化は、一つの大きな思想的飛躍であり、松本の想定による第二部は、この展開を契機に二つの時期を画していると考えることができよう。そうだとすれば兼好は、『徒然草』において四つの時期を経過しつつ、その思想を展開せしめているといえるのである。もっとも、この第二と第三の時期を、現行流布本によって明確に区分するには、なお精しい検討を要するに相違ない。一般に、『徒然草』の執筆が流布本の順序のままであるとの保証はないし、おそらく兼好あるいは後人による後の編成は当然想定すべきであろうから、この第二・三部の画期を截然と区分することは、むしろ今後の課題に属する。したがって、この点では西尾説にしろ松本説にしろ、その区分にふくみを残しているのが自然である。
いずれにしろ、作品の執筆順序あるいは筆者の編成にもとづく『徒然草』の構成は、作品論のためにも重要な課題であるが、現在の段階では、これ以上明確にすることは不可能である。結局現存本の編成には、兼好の参与した部分が、おそらく中心になっていると思われるが、百パーセント兼好のものでもなく、ある改修が施されていることをも顧慮しつつ、作品そのものにあたるほかないものと考える。
それにしても、現存諸本の構成いかんにかかわらず、『徒然草』の思想は明らかに、ある展開を見せており、筆者としては現在、少なくとも四つの時期を画することが可能かと推測するのであって、作品『徒然草』は、そのような展開に即して形成されていると認めざるをえない。それらの思想的な展開は、必ずしも現在見られるような流布本諸段の配列順を追うて進行するとはかぎらないが、その点については、『徒然草』中の個々の章段内容の、具体的な追求において限定し確認することが、およそ可能であり、ここまでくれば、もはや考証の段階ではなく、主として、作品論そのものの担うべき分野にはいることになるはずである。
3.徒然草の作者 ―その生涯と思想的遍歴―
兼好の伝記的研究も、近来飛躍的に進歩し、彼の生活史はしだいに明らかになってきたにもかかわらず、彼の生没年時は、いまだに確認されないままである。かつては、『諸寺過去帳』のうちの「法金剛院過去帳」に見える、「観応元年四月八日」示寂の記録と六十八歳死亡説とから逆算して、兼好は弘安六年に生まれたとする説が通説とされていた。ところが、たとえば兼好が観応二年十二月三日に、『続古今集』を書写した事実、また『後普光園院殿御百首』に兼好の合点があって、その奥には、「観応三年八月二十八日」と記されていることなどが明らかになり、兼好は、少なくとも観応三年までは生存していたはずであることが実証された現在、右の過去帳による説は否定されたことになる。それにしても、「長くとも四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ」(第七段)と書いた兼好が、いつまで生きのびたかは、結局、未詳であるというほかない。
しかし、兼好の伝記的研究が進むにつれて、兼好の出家の時期やその動因について、また出家後の、さらに晩年の生活について、その他もろもろの彼の生活史に関する疑問点で明らかになったところも少なくない。その詳細については、別項の参考文献を参照されたいが、本稿では、以下それらの諸説にもとづき、兼好の生涯にわたって、特に作品『徒然草』を理解するための、生活史上の重要な問題点にかぎって、その要点を概括しておくことにしたい。
兼好の俗名はト部兼好であり、『ト部家系図』や『尊卑分脈』などによれば、彼の家系は代々神祗官あるいは太政官として奉仕してきたのであるが、兼好の祖父兼名の時から庶流となり、父の兼顕は治部少輔、兄の慈遍は大僧正になったが、同兼雄は民部大輔、兼好自身は蔵人・左兵衛佐として仕官する程度の身分であった。『徒然草』末段の仏問答の思い出や第二百三十八段の「自讃」等によれば、兼好は幼時から聡明で記憶力もすぐれ、感性の鋭敏な人として成長したことがわかる。しかも、対者の心理を鋭く洞察し、その思考法がすぐれて論理的であったことも、生得的なものであったことが、まず想定されるのである。
&; 兼好は青年期に達して、時の第一級の藤原貴族、久我家の系統に属する堀河(内大臣具守)家に家司として仕え、おそらく堀河家の媒介によって蔵人・左兵衛佐となり、宮廷を中心とする貴族社会圏に常時出入するようになる。若き日の兼好は、このような生活のなかで、貴族文化を全面的に身につけたであろう。「なに事も古き世のみぞしたはしき」(第二十二段)という言葉に象徴されるような、古代貴族文化に対する執念のような思慕の情も、青年期の体験の決定的な刻印であったに相違ない。
そのような彼が、やがて官を退いて出家した経緯については、従来さまざまな説があった。たとえばかつては、後宇多院や邦良親王の死をきっかけとする出離であると考えられた。兼好の仕えた堀河家の源具守の娘、基子が後宇多院の妃となって後二条天皇を生み、後二条の皇子が邦良親王であったから、これは当然の憶測でもあった。ところが、やがて岩橋小弥太(『史料採訪』所収「再渉鴨水記」)によって、『大徳寺文書』の中に、兼好が土地を売買したときの証文の現存することが発見された。その一つは、正和二年九月に、兼好が六条三位有忠から山城国山科小野庄の田地一町歩を購入した際の売券に、「兼好御房」と記されていること、他は、元亨二年四月に、名田を柳殿(尼衆寺)の塔頭に売寄進したおりの寄進状に、「沙弥兼好」と自ら記しているという事実である。しかもその年代は、いずれも後宇多院や邦良親王の生前中のことであるから、兼好は二人の死より以前に、すでに出家を遂げていたことが確認されたことになり、院や親王の死を契機として出家したという憶説は成り立たなくなった。
しかし、貴族たちの生活圏に出入りして、貴族文化の粋にふれてきた兼好も、やがて出家したことは周知のとおりである。たとえば、
世をそむかんと思ひ立ちし頃、秋の夕暮に、
そむきなばいかなる方にながめまし秋の夕もうき世にぞうき
世の中あくがるる頃、山里に稲刈るを見て、
世の中に秋田刈るまでなりぬれば露もわが身もおき所なし(『兼好法師自撰家集』)
などと詠嘆しているように、出家を思って、ほとんど居ても立ってもおられない焦慮感の高まってきた時期が、兼好にはあったわけである。その彼がやがて、
さても猶よをうの花のかげなれやのがれて入りしをのの山里(同上)
と歌っているのによると、出家した兼好は小野庄(安良岡はこれを、さきに買い入れた名田のある山城国山科の小野庄とし、ここで『徒然草』第一部を書いたと推論している。また、この小野は洛北大原に近い小野であるとする高乗勲の説もある)に隠遁したことになる。
出家の場所はいずれにしろ、少なくとも彼の出家が、何か外発的な事件などをきっかけにして決行されたとするよりは、兼好の残した和歌から推しても、また出家後、間もなく書かれたと推定される『徒然草』第五段の、
不幸に愁へにしづめる人の、頭おろしなど、ふつつかに思ひとりたるにはあらで、有るかなきかに門さしこめて、待つこと もなく明かし暮したる、さるかたにあらまほし。
などの心境を、さきにかかげた出家直前の詠とかさねてみても、兼好の出家は、貴族世界での仕官生活のなかで、しだいに内発的に醸成されたものと認めざるをえない。鴨長明の場合のように、外発的な事件によって一挙に決行されたような出家は、兼好のよしとしなかったところである。そうして、このことは作品『徒然草』の本質にかかわる重要なポイントでもあったはずである。したがって、おそらく出家の後、間もなく書かれはじめたであろう、『徒然草』のいわゆる第一部が、貴族社会圏での若き日々の生活意識を残影のごとくとどめ、古代貴族文化に対する断ちがたい思慕の情に、色濃く染められていたとしても、それは当然のことであった。
ところで出家後の兼好の動静は、こまかにあとづけがたいが、以上のようなプロセスを認めるとすれば、洛北の修学院に、また横川にこもった時期も、必然的にその後におかるべきであろう。しかも、その修学院時代にも、修学院といふところにこもり侍りしころ、
のがれてもしばのかりほのかりの世にいまいくほどかのどけかるべき
と詠嘆し、また横川にこもった後も、
人に知られじと思ふ頃、ふるさと人の横川までたづねきて、よの中のことどもいふ、いとうるさし。
としふればとひこぬ人もなかりけり世のかくれがと思ふやまぢを
されど帰りぬるあと、いとさうざうし、
山里はとはれぬよりもとふ人の帰りて後ぞさびしかりける(以上、『兼好法師自撰家集』)
などと歌っているように、彼の心は現世にも修道生活にも安住できなかった。心を澄まして仏の世界へ上昇しようとすればするほど、彼には現世への関心が高まってきたに相違ない。上昇と下降とのせめぎあいこそが、兼好の作品の根底をささえており、その緊張が持続したかぎり、『徒然草』は文学としてのリアリティーを獲得しつづけることができたはずである。
これら「山里」における孤独な修道生活は、兼好の思想の展開をあとづけようとするとき、一つの画期的な時点として位置づけられるであろう。つまり、この時期を転回点として、『徒然草』第二部は展開されたと考えざるをえないからである。たとえばそこでは、
つれづれわぶる人は、いかなる心ならん。まぎるるかたなく、ただひとりあるのみこモよけれ。(第七十五段)
と、俗事にまぎれることのない、孤独な、つれづれの境地をよしとし、そこでこそ精神の自由と安定とが獲得されることを確認しており、
縁を離れて身を閑にし、ことにあづからずして心を安くせんこそ、暫く楽しぶとも言ひつべけれ。「生活・人事・伎能・学問等の諸縁をやめよ」とこそ、摩詞止観にも侍れ。(同上)と、現世の諸縁から解放されるべきことを説き、ついに、
大事を思ひ立たん人は、去りがたく、心にかからん事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。(第五十九段)
という決断を求め、「諸縁を放下すべき」(第百十二段)であると主張するようになる。このように、きびしく求道精神を鼓舞する文章は、後半の部分にも認められ、
万事にかへずしては、一の大事成るべからず。(第百八十八段)
と、すべてを放下して「一大事の因縁」(同上)にのみ集中すべきであるとするのであるが、しかしまた、
筆をとれば物書かれ、楽器をとれば音をたてんと思ふ。盃をとれば酒を思ひ、賽をとれば攤打たん事を思ふ。心は必ず事に
触れて来る。(第百五十七段)
と、むしろ積極的に所縁をとらえ、俗縁であるはずのわが子から出離するのではなくて、むしろ、その「子故にこそ、万のあはれは思ひ知らるれ」と言った、ある荒夷の言葉に、「さもありぬべき事なり」(第百四十二段)と同感し、放下すべきであったはずの「恩愛の道ならでは、かかる者の心に慈悲ありなんや」(同上)とするようになる。所縁に引かれ、やむをえずして、俗世間にあくせくする人に対しても、
その人の心になりて思へば、誠に、かなしからん親のため、妻子のためには、恥をも忘れ、盗みもしつべき事なり。(同上)と弁護するところから、さらに、
されば、盗人をいましめ、僻事をのみ罪せんよりは、世の人の饑ゑず、寒からぬやうに、世をば行はまほしきなり。人、恒
の産なきときは恒の心なし。人、きはまりて盗みす。世治らずして、凍餒の苦しみあらば、咎の者絶ゆべからず。人を苦し
め、法を犯さしめて、それを罪なはん事、不便のわざなり。(同上)
という、鋭い政治批判にまで進み出るのである。この所縁たる外相つまり現象世界を、むしろ積極的にとらえなおそうとする精神の高まりは、兼好の眼をさらに鋭く透徹したものとしたのであって、そこから自然や人間のとらえかたにも、飛躍的な深まりがみられるようになる。
春暮れてのち夏になり、夏果てて秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は則ち寒くなり、
十月は小春の天気、草も青くなり梅もつぼみぬ。木の葉の落つるも、先づ落ちて芽ぐむにはあらず。下よりきざしつはるに
堪へずして落つるなり。迎ふる気、下に設けたる故に、待ちとるついで甚だはやし。(第百五十五段)
と、自然の推移をいわば弁証法的な自己超出過程としてとらえ、また、その自然と人間とを対比しつつ、
四季はなほ定まれるついであり。死期はついでを待たず。死は前よりしも来らず、かねて後に迫れり。人皆死ある事を知り
て、待つこと、しかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遙かなれども、磯より潮の満つるが如し。(同上)
と、人間生命の転化こそは、自然にも増して激しく進行すること、それは自然のそれのように、順を追うて漸進的におこなわれるとはかぎらず、一挙に飛躍的に実現されるものであることを断言するまでにいたるのである。これらの明識は、おそらく修学院や横川での修道生活を終わって下山し、さらに東夷の拠点であった関東にも下向したりして、俗世の所縁の意義をも確認した後の兼好が、拡充された視野のなかで到着しえたところであり、いわば兼好の思想の昂揚期において獲得されたものであるに相違ない。そこにはついに、貴族文化そのものの自己否定を意味する思想さえ生み出されようとしており、たとえば、
詩歌にたくみに、糸竹に妙なるは、幽玄の道、君臣これを重くすといへども、今の世にはこれをもちて世を治むる事、漸く
愚かなるに似たり。金はすぐれたれども、鉄の益多きにしかざるがごとし。(第百二十二段)
のように、かつては貴族的な価値の基準として、最も尊重していたはずの「幽玄の道」を、「愚かなるに似たり」とまで言いきってしまうのである。全日本を震憾せしめた南北朝内乱の気運の、はりつめた時点に当面して、このような思想がほかならぬ兼好法師の『徒然草』において創出されたということは、彼の思想的遍歴が、いかに昂揚したプロセスをたどったかを証明するものである。
ところが、現在流布している『徒然草』の終末部分(とくに第二百十九段以降)を、それ以前の部分から読みつづけてくると、この間にまた一つの段落を感じざるをえなくなる。いったい兼好がいつ死んだか、いまだに明らかでないことは、すでに述べたが、彼の晩年の動静をうかがうにたる材料は、かなり知られている。兼好は出家の後もひきつづき詠歌し、『続千載集』『続後拾遺集』その他に入集し、『古今集』や『八雲御抄』その他の歌書をしきりに書写・校合している。また為世門の「和歌の四天王」という評価にもうかがえるように、修学院や横川から都へ帰って後は、もはや名田も売却してしまっていたであろう彼は、おそらく歌人として、また有職故実家として、その生活をささえていたものと思われる。六十歳、おそらくそれをこえた兼好が、康永三年十月には、時の権力者足利直義の勧進による「高野山金剛三昧院奉納和歌」に五首の和歌を詠進しているのも、足利尊氏の政治顧問であった三宝院僧正賢俊に、おそらく歌人として認められ、貞和二年その伊勢参宮に随従していることなどから、賢俊の勧めによるものであったろうかと推測されている(金子金治郎「晩年の兼好法師」『国文学攷』所収、昭和二九・一一)のであって、かの『太平記』に見られる高師直との交渉も、兼好の晩年が足利幕府がたの権力者たちへしだいに接近していったことを物語っている。そうした兼好を洞院公賢が、「和歌数寄者也。召簾前謁之」(『園太暦』貞和二年閏九月六日)と記し、また「兼好法師入来。武蔵守師直狩衣以下事談之云々」(同上、貞和四年十二月二十六日の条)と記しているのによっても、兼好の晩年には、時の権力者・足利直義に近づいて詠歌し、高師直のもとに有職故実家として出入りするといったことがあったものと思われる。かの『太平記』に、兼好が高師直のために艶書を代筆して失敗したことが描かれているが、このような話も、必ずしも虚構とばかりはいえず、晩年の彼の生活状態を象徴する表現であるに相違ない。『徒然草』の成立については、すでに述べたように、なお多くの疑問があり、現存本が原典の編成のままであるとは保証できないにしても、第二百十九段以降の諸段には、少なくとも中期に執筆の部分のような、著者をささえる思想の緊張は弛緩し、懐古的・詠嘆的な傾向が、むしろよみがえっている。おそらく青年時代から書きはじめられた『徒然草』は、晩年に書きつがれたこれらの部分をもあわせて、一編の随筆作品として編成されたものと考えられ、全編の最終的な編成者が、兼好であろうと兼好以外の人物であろうと、『徒然草』諸段の中には、右のような兼好晩年の実生活に見合う部分があるであろうことは、作品の内部からこれを検証することが可能であるように思われる。
いずれにしろ、『徒然草』という作品をその内側から照射すれば、その全体が、とにかく一つの作品としての一貫性をそなえていることはいうまでもないが、そこには、また顕著な展開があり、作品の内質は二転、三転して、兼好の思想的遍歴のプロセスをかいまみさせるに十分である。したがって、作品としての『徒然草』も、当然、一人の人間の思想の歴史的な展開にそって、これを把握することなしには、正当な評価に近づきがたいであろうことを、ここではとくにつけくわえておきたい。
4.作品徒然草の世界
第二章で見てきたように、『徒然草』の成立には、いわばひとつの歴史があった。作者兼好の視座は、その歴史にそって移動しており、その形成のプロセスには、連続と断絶を含むある種の展開がある。しかし、それにもかかわらず、『徒然草』には一貫性のある固有の世界があることも、また否定できない。そこで、文学作品としての『徒然草』の世界をとらえようとすれば、この点をぬきにすることができないのである。
もともと『徒然草』の作者の内部は、兼好の生い立ち・成長の過程をとおして形成された、貴族的・古典的な世界を志向する情念によって、その基底をとらえられており、それは内外に対する兼好の評価の、ほとんど第一基準を形づくっている。たとえば『徒然草』には、「よき人」の判断に従って対象を評価するところが少なくない。敬語によって語られるそれらの「よき人」は、およそ古典的な世界を代表する第一級の貴族たちであり、それと対象的に設定されるのが、「かたゐなかの人」である。その兼好が季節の推移を語りつづけるとき、「言ひつづくれば、みな源氏物語・枕草子にことふりにたれど」(第十九段)と、ふと、ためらいの言葉をもらしている。たしかに彼の眼は、これらの古典的な名作にない新しい視角から自然をとらえているのだが、それにもかかわらず、その逡巡にはそれなりの理由があって、この言葉は単なる謙辞ではない。それは、王朝時代の名作に対する兼好の深い敬意と傾倒とを、かくしようもなく表現しているに相違ない。
ところで兼好が、『源氏物語』とならべて、これほどまで意識していた『枕草子』も、おなじく随筆的な作品であり、また『枕草子』と『徒然草』との間には、兼好が知らないはずのない『方丈記』があり、それも一般に、随筆として系列化されてきた代表的な作品である。ところが形式からいえば、『徒然草』は時代の遠い『枕草子』に似ており、近いはずの『方丈記』に似ていない。『方丈記』には、その一編を縦に統一する主題があらわであり、それがある展開を示しながら、いわば起承転結の運びにおいて完結する。その作品構成は、ほとんどぬきさしならぬ順序をふんでいて、およそ変更がきかない。変更すれば作品そのものが解体するからである。『徒然草』や『枕草子』にも、その筆の順序あるいは章段の配列に、ある種の構成が認められる。序あるいは跋文の場所は変更できないし、『徒然草』の場合、たとえば仁和寺説話(第五十二〜五十四段)や資朝説話(第百五十二〜百五十四段)のグループなどには、さしかえのきかない緊密な構成がある。たとえ『盤斎抄』の「来意」の説が、全面的には従えないにしても、意味のないこととは考えられない。しかし『徒然草』は、その章段に多少のさしかえが行なわれたとしても、『方丈記』ましてや『源氏物語』のような作品とちがって、決定的な作品解体にはならない、そういった構成をとっている。
それでは『徒然草』には緊密な作品構成がないのか、一つの作品として、『徒然草』の世界を形成かつこれを統一する構想力の核はないのか、弱いのかというと、それはやはりあって、しかもけっしてルースなものでもない。ただその構想力、それにもとづく構成法が、『方丈記』とも『源氏物語』とも相違しているだけである。
『徒然草』の構成を、かの「来意」説をふまえ、あるいは連歌的な展開などとして理解しようとする説がある。たとえ、そういう部分が認められるにしても、作品全体をその方法でとらえようとすれば、どうしても無理があり、また事実にもそぐわない。連歌と随筆とがジャンルも違うし、方法も異なることはいうまでもない。それでは『徒然草』全体を統一する構想力の核心は何か、それはどのように作品として実現されているか。問題は当然そこへ帰ってくる。
いったい『徒然草』の中には、おなじ随筆作品の一部を構成しながら、形式・文体の著しく異なる部分が共存している。たとえば『徒然草』には、説示的あるいは内省的に著者の主張を直接展開する部分があり、これらは形式的には現在法によって叙述されているが、章段の数からいえば圧倒的に多く、ほとんど全段の半ば近くを占め、作品の第一要素であることを示唆している。また、その残りの部分を合算すれば、全章段の過半数を占める叙事形態の諸段ということになるが、そのうちで、およそ半ばを占める諸段は、説話型の、形式的には主として伝聞回想の助動詞「けり」によって語られている部分である。叙事形態の諸段の中には、その他にも物語型あるいは枕草子型などともいわれている王朝文学の形式をふまえた部分の少なくないことは、「言ひつづくれば、みな源氏物語・枕草子などにことふりにたれど」と、兼好が自ら述べざるをえなかったのにもかかわっている。これらの、いちおう、形式を異にする諸段が、あるものは脈絡を保ち、あるものは一見無関係に断絶しながら、しかもともに連結されている。
統一し作品として収斂するものは何であろうか。
説示的・内省的な諸段には、兼好自身の思想が直接、積極的にうち出されており、そこに表現されている思想が、そのまま作品の核を形成していることは自明である。しかし説話型の諸段には、一見して説話的に著者の伝聞を叙述することで、そのまま説示的な表現となっているところがあり、あるいはまた、単なる思想の展開によっては開示しがたい人間心理の機微をとらえ、兼好の人間観を全円的にかいまみさせるところが少なくない。つまり『徒然草』に見られる説話型の諸段は、単なる興味本意の異聞収録ではなく、伝聞回想の形式をとることによって、逆により深く包括的に兼好自身を語るところに、そのねらいがある。だから、説話型でありながら、それらの叙述はきわめて個性的つまり兼好的なのである。そこには衆の想像力により力点を置いて語られる一般の説話文学と、はっきりした一線が画されている。
そういえば物語的な諸段についても、たとえばそれが一見、『源氏物語』などの一場面を切り取ったかのような部分でも、けっして物語と等質に展開されてはいない。兼好にとっては、そのような形式をとることによって、彼の思想のひとつの主軸としての王朝的なもの・古典的なものを固執する情念が表現されると同時に、すでにほろびに瀕しているそれらの情景の構築には、想像世界において、それらを奪還し、いわば再構築しようとする志向が見えており、しかもその再建のしかたには、彼の思想が、説示的な部分に劣らず貫かれているからである。
物語的な叙述のなかに、いつの間にか、「見過しがたきを、さし入りて見れば」(第四十二段)、「行かん方、知らまほしくて、見おくりつつ行けば」(第四十四段)などと、作者自身がその姿を見せはじめ、やがて、「いかなる人なりけん、尋ね聞かまほし」(第四十三段)、「けはひなど、はつれはつれ聞えたるもゆかし」(第百五段)と、作者自身の「ゆかし」「あはれ」その他の情念が露出してしまってさえいるのが、この事実をかいまみさせている。
つまり『徒然草』は、その叙事的な形態の諸段においても、説示的・内省的な形式をとる部分とまったく同様に、いずれもそれぞれ異なる形式を通じつつ、より多面的より全円的に兼好の志向を表現している。また、それらすべては彼の思想に収斂されつつ、しかも一見脈絡の希薄な諸段の寄せ集めであるかのような集合体形式として実現されているのである。しかし『徒然草』は、その独自な形式において、展開形式の物語や起承転結形式の『方丈記』のような随想とも異なる、構想の自由を獲得しているのであって、これこそ典型的な随筆形態の表現の独自性である。このような形式をとることによって、兼好における外部と内部とは、その遠近においても角度においても、きわめて多元的かつ自由な観点から表現することが可能になった、というよりは、むしろ兼好の思想が必然的に、そのような形態を選びとったとすべきである。つまり、『徒然草』諸段のうちで圧倒的な比重をもつ、説示的・内省的な、つまり内外に対する批判的な主体は、さらに説話的・物語的等、もろもろの形式による諸段をもあわせ、それらすべてを兼好の内面に収斂することによって、全円的に彼の自己主張を貫徹することができたのである。
ところで『徒然草』に見られる批判的主体は、あくまで見る立場にあり、むしろ積極的に保留の立場に自己を限定している。たとえば、すでに見てきたように兼好は、その出家においても、「不幸に愁にしづめる人の、頭おろしなど、ふつつかに思ひとりたるにはあらで」(第五段)と言明するように、「愁にしつ」んでも、そこからただちに行動にうつることをよしとしない。むしろその「愁」を外化し、対象化しつつ、見る立場に自らを保留する。そのことによって内部も外部も、兼好によって、より鮮明に観取されるのである。ただ、その外化・対象化には、当然のことながら限定があり、それは彼がもの心ついて以来、呼吸してきた貴族社会圏そのものを、全面的にラジカルに外化することを阻んだ。「なに事も古き世のみぞしたはしき」(第二十二段)という言葉は、現前の貴族社会だけでなく、新興の武家その他の世界のありようをも、批判的に対象化した結果の感慨としての積極性もありはしたものの、その外化はネガティヴで、いかにもよわよわしい。すでに述べたように、兼好も一度は「幽玄の道」を批判して、「今の世にはこれをもちて世を治むる事、漸く愚かなるに似たり。金はすぐれたれども、鉄の益多きにしかざるがごとし」(第百二十二段)と、貴族社会の、したがってまた、みずからの存立の拠点をあばき出すところまで進み出るのであるが、それも貴族政治そのものの直接的な批判には収斂されることなく、むしろ、「聖の教を知れるを第一」のこととするところから、そのほかの道への多能を戒めようとするところに、本来の志向はあった。またたとえば、「貧しくては生けるかひなし。富めるのみを人とす」(第二百十七段)などと、当時としては、まったく大胆不敵な新興社会層の人物をとらえた部分でも、兼好は、その現実主義的な人間の旺盛な生活力を正面から追求するには堪えかねて、かの大福長者の語る致富の道の論理の、内質を抜き去って形骸化し、「貧富分く所なし。究竟は理即に等し。大欲は無欲に似たり」という、相対世界の無差別観にすりかえてしまう。この部分においても兼好は、その保留の立場からでは、とうていとらえがたい世界が、現実に進行していることを、それこそラジカルに外化することはできなかったのである。
『徒然草』の作品としての評価については、本居宣長の論難をはじめとして、いまだに容れがたい対立がある。しかし、それらは、単なる二者択一の対立でかたづくものではあるまい。むしろ兼好の、見る立場そのものを根底的に明らかにするところから、その評価の道はひらけるであろう。『徒然草』の作品そのものが多面的であるように、その評価もまた多様な視点をつつみこんだうえで、よりラジカルに兼好の作品そのものを、それこそ外化することによって、それは深められるものに相違あるまい。
5. 徒然草の享受と研究。
『徒然草』が成立してから、およそ六百年あまり、その享受や研究の幅の広さ、その厚みのほどは、この作品がいかに日本人の心を持続的にひきつけてきたかを物語っている。しかし、現存する資料の語るところによれば、『徒然草』の成立時代から、かの正徹が『徒然草』第百三十七段を賛嘆するにいたるまでの、およそ一世紀の間には、兼好の名は主として歌人または故実に明るい有職の人として伝えられてきた。ところが、正徹・心敬らによる『徒然草』の評価以来、しだいに随筆作者としての名が喧伝され、近世から近代へかけての兼好は、もっぱら『徒然草』の作者として遇せられてきた。その『自撰家集』のごときも、ほとんど彼の伝記資料として珍重されたといってもよい。ところで近来、兼好の伝記的研究の精密化にともない、彼の和歌も、単なる二条派の亜流としてでなく、冷泉派への親近という事実の指摘にもとづいて、再検討されようとする傾向がある。しかしそれにしても、この事実のために、今後兼好の文学が、その和歌と随筆とを等価にとらえられるようになろうとは思われない。このような兼好の作品評価についての歴史的な推移という問題は、同じ作家による異なるジャンルにおける作品のありかた、さらにそれらに対する評価の歴史性についての興味深い問題を喚起するが、この一事に見られるように、『徒然草』の享受・評価については、膨大な量の研究が積みかさねられているだけでなく、著しい相違があり対立がある。それは随筆作品という作品の特殊な形熊から、多様な評価を招きやすいということにもよるが、作品自身が、すでに述べたような作者主体の精神の展開にそって書きつがれ、いわば作者の思想的遍歴のプロセスとして残されていることもあって、いっそうその評価の多様化あるいは対立を呼びおこしたことも否めない。かの中世詩人たちと本居宣長との意見の対立も、その代表的な例の一つであったに相違あるまい。
ところで慶長九年、『徒然草抄訳『寿命院抄』二巻、秦宗巴著)が、入門的な注釈書として最初に出版されて以来、やがて近世初期人文復興の気運にうながされ、『徒然草』は有効な人生論の一つとして注目されはじめる。まず元和七年には、徳川幕府正学の基礎を築いた林道春(羅山)が、『徒然草野槌』を著わすが、この書は儒教的・教学的な立場から、『徒然草』を人生教戒の書として読もうとする近世的な評価のひとつの代表的な位置を占め、慶安元年刊行の『徒然草鉄槌』(四巻、青本宗胡著)以下、その線にそった論著の先鞭をつけた。慶安五年には、やはり羅山の説に近い『徒然草慰草』(八巻)が、松永貞徳の跋を付して刊行され、これ以後、以上の諸著をふまえた啓蒙的な著述が続出するが、寛文元年には、加藤盤斎による『徒然草抄』(『盤斎抄』十三巻)が成立する。この書は、『徒然草』が天台摩詞止観をやわらげ書いたものとし、羅山説に対して仏教的な思想を重視した点でも、また、「上段より心を受けて」書いたという「来意」の説を立てて、作品を内的に把握しようとした点でも、異色のある論著である。また寛文七年には、北村季吟が貞徳の説に拠りながら自説を展開した、『徒然草文段抄』(七巻)が刊行される。この書は師説にもとづいて、『徒然草』を二百四十四に分段し、それによって書名も『文段抄』と称した。また本書は、季吟の著として広汎に普及したこともあって、章段の分立をはじめ、その後の『徒然草』研究に大きな影響を与えた。やがて貞享五年には、『寿命院抄』以下十四種の諸抄を、網羅的に整理して一覧に供した、『徒然草諸抄大成』(二十巻、浅香山井著)が成立し、当時すでに、それほど多種多様な研究書が続出していたことを示している。その後、たとえば各務支考の『つれづれの讃』(九巻、宝永八年版)のように、『徒然草』を儒教の訓戒や老荘の説としてでなく、兼好という「風流の隠者」の文芸説としてとらえようとする評論も現われたが、一般に、『徒然草』が儒教的あるいは仏教的な人生訓戒の書としての枠組から解放され、本来の文学的な随想の書としてとらえられるようになったのは、やはり近代にはいってからである。その最も早いものが、むしろ研究書ではなく、島崎藤村をはじめとする星野天知・平田禿木らによる明治二十年代の『文学界』同人たちによる、「草庵文学」としての『徒然草』への注目と共感であったことを、ここで見落としてはなるまい。
研究者の側からは、これにややおくれて、内海月杖の『徒然草評釈』(明治四四)、またこれと前後して藤岡作太郎が、『徒然草』を趣味論として捉えようとした(東京帝国大学の講義を後に『鎌倉室町時代文学史』に所収)。さらに大正三年には時の「自由」思想に促された『徒然草講話』(沼波武夫著)が出版され、儒教的・仏教的な視点による、どちらかといえば教学的な『徒然草』観は、ようやく文芸論的把握に席を譲りはじめる。しかし、『徒然草』が本格的な研究対象になったのは昭和初期であり、それはこの期にいたって、『徒然草』がようやく文学として再評価されはじめたことでもあった。それらの本格的な研究のうち注目すべき論著については、前掲各章の関係項目において、それぞれいちおう紹介しためで、ここでは、以下『徒然草』に関する主要な研究・評論等を、事項別・年代順に列挙しておくにとどめた。読者が直接これらについて、「解説」の欠を補われることをねがう。
徒然草目次